涼子さんの恋事情
第1話
心地良い初秋の朝、出勤前の小早川涼子(こばやかわりょうこ)は、コーヒーに口をつけながら新聞に目を通す。総合商社に入社してから十年、自他共に認めるキャリアウーマンで、朝は日経新聞で株価の確認をするのがライフワークとなっていた。
今年三十二歳となったが、異例のスピードで部長職まで昇格した。仕事が出来るか出来ないかが涼子の全てであり、男女関わらず出来ない人間はクズだと思っている。そして、仕事で成果を上げる男こそがイイ男であり、それ以外の男は塵にも満たない取るに足らない存在だ。
現状、社内において涼子以上に出来る男はほとんどおらず、当然ながら恋愛対象となる者などいない。むしろ仕事こそが恋人であり、涼子を高め存在せしめる相手と言えた。
職場のデスクに到着し取るに足らない部下が作成した企画書に目を通していると、コネだけで役職についている山田がこちらに来る。実力もなければ常識的もない、涼子が一番嫌いなタイプだ。
(見事なまでのバーコードハゲを見る度、バーコードリーダーで価格を読み取りたいと思ってしまうけど、確認するまでもなくきっと十円くらいの価値よね)
頭部をじっと見ていると山田が話し掛けてくる。
「小早川部長、先週の赤丸商事との取引は大成功だったみたいだね。流石だ」
「ありがとうございます、常務」
「赤丸社長も君をいたく気に入ったみたいでね、早くも継続契約の話が出てる。これからも宜しく頼むよ」
「お任せ下さい」
(いつか失脚させてあげるから覚悟しておくのね。仕事の出来ない穀潰し)
涼子の呪いの言葉を受けたせいか、山田は追加で雑務を押し付ける。
「それと一ついいかね? 私の親戚の子でね、白川達也(しらかわたつや)君という子を急遽うちの社で預かることになったんだ。歳は二十五、六なんだが、君の部署で預かってくれないか? 仕事内容は君に一任するから」
(新人? しかも九月というこんな中途半端な時期に? きっとろくなヤツじゃない。コネで入社するような甘ちゃん野郎だし)
雑務を快諾し忘却しかけた一週間後、山田が達也を引き連れて涼子のデスクにやってくる。
「小早川部長。この子が先日話した白川達也君だ」
「はじめまして、白川達也です。宜しくお願いします」
童顔色白で頼りなさげな表情から、涼子はゆとり世代だと推察する。近年多くなってきているが、過保護すぎる社員の親が恥ずかし気もなく仕事内容にクレームを付けてくることがある。そのほとんどは言い負かして追い返すが、その後当該社員が辞めることが多いのでやり込めるのも楽ではない。
「小早川です。求めるのは結果だけだから、そこのところ宜しく」
「は、はい」
心配そうな顔をする山田を追い返した後、資料作りで力量を計ってみるも予想通りの低レベルで嫌な予感が当たる。
(これからまた一つお荷物が増えると思うと頭が痛くなるわね……)
部署会計課の篠原真理子(しのはらまりこ)から達也の歓迎会開催を提案され承諾はするものの、きっとすぐに辞めるであろうコネ社員を歓迎する気にはなれない。予算を少し負担し涼子は歓迎会に参加することなく一人帰宅の途につく。
玄関の鍵を開けると娘の麻衣(まい)が出迎える。仕事が恋人とは言ったものの、世界で一番大事なものは当然娘であり、娘のためなら命の謙譲すらいとわないという点は世の母親となんら変わらない。
「ただいま、麻衣。ちゃんと宿題はした?」
親バカと思いながらも麻衣の教育には人一倍力を注いでいる。娘が将来困らないように、幼少のうちから社会で通用する有効的なスキルは身につけさせておきたい。
「終わってるよ。ご飯も出来てる」
(私に似ず十ニ歳で勉強も料理も上手だなんて、この子の将来が楽しみでならないわ)
頼もしく嬉しくもあり、ついつい笑みが零れてしまう。職場では完全に感情を殺しているので、家庭ではその反動からかだらし無いくらいリラックスしてしまう。
食事や入浴を済ませ麻衣が寝付いたのを確認すると、パソコンの電源を入れいつものサイトを開く。夜にも関わらず大勢のユーザーがログインしており安心する。麻衣はもちろんのこと職場の誰にも涼子の密かな趣味は知られていない。部屋を作成し相手を待っている間、写真立てに写る麻衣を見つめる。
十年前に結婚し一年も持たずに離婚。恋愛経験も浅く、相手の男を見る目がなかったと言えばそれまでだ。しかも相手は連れ子であったまだ二歳の麻衣を涼子に押し付け失踪した。以来、血の繋がりはないものの、本当の娘として育て接して来ている。幸いまだ小さかった麻衣は涼子を本当の母親と思っており、これまで反抗期もなく真っ直ぐ良い娘に育ってくれた。いつかは真実を話す日が来るであろうが、その日を円満に迎えるためにこれからもしっかりした母親像でありたいと願う。
その一方、全く趣味もなく人と関わらないで生きて行く辛さも実感しており、その解消のためにも今いるサイトを利用している。もともとこんな趣味はなかったが、別れた元旦那に毎晩仕込まれ、涼子はどんどんのめり込んでしまっていた。それは別れた以降も続き、今では我慢しきれずプレイしたくなるとネットで相手を見つけるようになっている。しばらく待っていると、相手が入ってくる。アイコンは女性となっている。チャット機能でありきたりな挨拶を交わすと本題に入る。
『そろそろ始めましょうか』
涼子が書き込むと相手も倣って書き込む。
『了解です。私の方から責めますね』
画面には『7六歩』と表示される。涼子はいつも通り『3四歩』と進める。『2六歩』『8四歩』と、進めて行き涼子は気がつく。
(コイツ初心者じゃなさそう。今夜は楽しめそうね)
涼子はニヤっとしながら将棋盤の画面をクリックしていた。