いろはにほへと
桂馬は、まず兄に目をやり、その後私を見ると、眉間に皺を寄せていた表情を緩ませる。
その態度が、トモハルと違い過ぎて、目頭が熱くなった。
いつの間にか。
トモハルとの距離よりもずっと、桂馬との距離の方が近くに感じるようになっていたらしい、と。
いや、以前よりも確実に離れてしまった、出来てしまった溝を、突きつけられたようで。
そして、それを目にして自覚したことで、いままで堪えていたものが、容易く零れ落ちてこようとする。
「ひな、大丈夫だったか?」
傍に来て、優しく声を掛けてくれる桂馬の前で、こんな涙を流す訳にはいかないと、必死で歯を食いしばり、なんとか頷いて見せた。
そこへ。
「中条、ひなのさん…」
重々しい声で、私の名前が呼ばれる。
見れば、知らない男性がー50代後半といった所だろうかーソファから立ち上がった所だった。
「どうぞ、こちらへ。」
ソファに座るよう促され、問うように桂馬を見ると、桂馬は頷き、ちゃんと聞いてこい、と囁いた。
戸惑いながら、足を一歩踏み出した際。
「守るよ。」
少し屈んだ桂馬の唇から、私の耳へと、小さく吹き込まれた言葉に、止りそうだった涙が、一粒だけ転がり落ちていったのを、俯いて誤魔化した。
「申し訳ないが、他の方達は一度席を外してもらえますか。」
知らない声がもう一度響くと、私の身体には尋常じゃない緊張が走り、澤田は不服そうに、あとの2人は特に何も言わずに、部屋を後にした。