いろはにほへと
桂馬は待たせていたタクシーに乗り込んで、私の知らない店名を運転手に告げると、私に向き直る。
「どうだった?」
走り出したタクシーの中。
「…まぁ、自分の実力は出せたかな、と思います。」
そう答えると、また彼の目尻に皺が出来る。
「良かった。」
桂馬と私の関係があれから進歩したかと問われると、近付いたような気がすると答えるのが無難かなと思う。
それも、お互いの距離が縮んだというのではなく、私が桂馬に近付いたという感じだ。
桂馬の苦しげな顔は、もう見たくない。
「桂馬くんこそ、発表明日で、緊張しませんか?」
タクシーを降りると、雨は細い線に変化していて、一本の傘の中、二人で手を繋いだまま、店まで歩く。
「俺が緊張なんかするわけねぇじゃん。絶対受かるし。」
桂馬のこの自信はいつもどこから来るのだろうかと思っていたけれど、最近は、彼が言うだけの努力をしている事に気付いた。
仕事にせよ、勉強にせよ、桂馬は手を抜かない人だった。
「いらっしゃいませ」
連れて来られた店は、表通りから一本奥に入った所にある、黒を基調としたカフェーだと思われる。