いろはにほへと
何の悪戯だ、と思った。
今、このタイミングでこれはないだろう、と。
「いい加減、周りの迷惑考えたらどうですか?ちょっと無防備過ぎるでしょ」
桂馬の挑戦的な目は、孝祐ではなく、俺に向けられている。
阿立桂馬を始め、桂馬が所属する事務所に、ルーチェもDYLKも助けられた結果になった。それで、桂馬がこうした言い方をするのも、無理はない。そしてその言い分は、間違ってもいない。
「ーじゃ、急ぐんで。」
ーここは、何も言わずに、貫こう。
そう思っていたのに。
「行こう、ひな」
後ろを振り返って、気にする仕草と、名前に、身体も心臓も固まった。
「え…ひなのちゃん!?」
すれ違う時になって、気付いた孝祐が驚いて声を上げる。
続いて、それに反応したひなのが、顔を上げた。
短くなった髪に、驚く間もなく。
目が、合った途端、心臓を鷲掴みにされた。
「?…ひな?」
どうしてか、彼女はそのまま、そこで立ち止まる。
「気にするな、いこう」
桂馬がそう言うが、ひなのは動かずに、真っ直ぐ俺を見ていた。
そしてー
「初めまして。」
そう言って、笑った。
隠すものが一切無くなった、それはそれは綺麗な笑顔で。
そんな場合じゃないのに、馬鹿な俺を舞い上がらせたのに。
無垢な笑みを浮かべたままで。
「さよなら」
一気に、俺を地に落とした。