いろはにほへと
黒目がちな瞳は、ふ、と逸らされて。
「いこう。」
桂馬が促すと、ひなのは、今度は従順に足を動かした。
「ー声、出せるようになったんなら、こんなとこほっつき歩いてないで、早く歌ってくださいよ。…ファンの為に。」
桂馬が捨て台詞を残して、腕を引かれたひなのがその後を追う。
空いている片方の腕が、俺の前を通り過ぎて行く。
小さい、スラと伸びた、白い指先が通る。
その瞬間。
追い掛けたい、掴まえたい衝動が、ぎりぎりの所で踏み止まって。
でも、触れてしまった、彼女の小指。
気付かなかったのか、それとも気付かなかった振りをしたのか、気付いたけれど何とも思わなかったのか、ひなのは振り返ることはなかったし、驚いたような反応もなかった。
けれどーただ、触れた人差し指が熱を持ち、それを無意識に自分の唇に当てる。
久々に感じた彼女の温度を、忘れてしまう前に、キスをするようにして、記憶に焼き付けた。