Again
「おまたせしました」

「ありがとう」





指を切ったくらいで泣いてしまい、葵は、顔を上げることができない。それに胸がつかえて箸が進まない。元気のない姿は意地でも見せたくなくて、元気で明るく振舞っていたが、無理があった様だ。





「片づけは俺がするから」





指の傷を気遣ってのことだ。だが、それも葵は拒否する。





「いいえ、大丈夫です。食器は食洗器ですし」

「……そうか」





頼りたくない。どこかそんな気持ちもあった。仁の優しさも拒否してしまう。

いつもなら食後に二人でコーヒーを飲むのが習慣になっていたが、葵は休みたかった。





「葵、コーヒーを淹れるが?」

「……お風呂に入って休みたくて。すみません」

「そう……」





夫婦なのに、申し訳なさそうに葵は仁に頭を下げる。





「傷口に水が入らないようにしよう。待ってて」

「あ、あの……」





大丈夫だと言おうとしたが、仁はいなくなっていた。



医療用のテープとビニール袋と輪ゴムを用意し、キッチンで立ち尽くしていた葵の手を引き、リビングへ行く。



葵の指を持ち上げ、テーピングをし、器用にビニールを巻き付ける。最後に輪ゴムで止める。





「少しきついが、大丈夫か? 痛くないか?」

「はい」

「これで、お風呂の間は水が入ってこないだろう。温まると血が出てくると思うから、風呂から出たらまた貼り直そう」

「はい、ありがとうございます」





仁に処置をしてもらって、また頭を下げる。風呂に入るために、下着と着替えの部屋着を取りにいくと、その場にへたり込む。





「後ろめたいことがあると、優しくなるって本当なんだな」





葵は、この時すでに仁を信じられなくなっていたのかもしれない。優しさに触れれば嬉しい、でも、頭を撫でる仕草も、手当をしてくれた行為も、抱きしめた力強い腕も、背中を摩った温かい手も、あの女性にもしていたことだろう。



好意をもっている女性ならば当たり前だ。葵だって過去の男に甘えたことだってあるし、当然、そういう行為もあった。仁ばかりを責めるわけじゃない。しかし、こればかりは感情あってのもので、葵が一生懸命に払拭しようにもすぐに何も無かったことにはできなかった。



風呂から上がり、自分で傷口の消毒をしようと、リビングへ行くと、既に仁はシャワーを済ませ、葵を待っていた。





「傷口は痛むか?」

「あの、少しだけ」

「消毒をしよう」

「大丈夫です、自分で出来ますから」





当たり前のように言うと、





「おいで」





この上ない優しい声で、仁が葵を引き寄せた。惑わされてはいけない。まっさきに葵が思ったことだが、優しくされるのは、悪い気がしない。



葵の指からゆっくりと丁寧に、テーピングを取る。





「だいぶ深く切ったんだね」





仁は、指を見て痛そうに顔をしかめる。

消毒をして、何枚も絆創膏をはり、そっと葵に手を戻す。





「ありがとうございます」





相変わらずの敬語で礼を言い、頭を下げ、部屋に戻ろうとしていた葵を、仁は腕を強く引き、抱きしめる。





「じ、仁さん」

「こうさせてくれないか」





ずっと抱きしめたかった葵。優しすぎる気遣いでずっと我慢していた。自分勝手だと言われてもいい、それくらい葵を抱きしめたかった。





「無理やりで悪いが、話を聞いてほしい」





葵を抱きしめる腕を緩めず、仁は、パリでの出来事を話し始めた。こうして拘束していれば、逃げられずに話を聞くしかない。



話しを避けていた葵は、聞かざるを得ない状態にされてしまっていた。淡々と話す仁に対し、そうなった過程よりも実際に見てしまった光景がずっと頭のなかでリピートする。



女の立場、いや、愛情もなく結婚したが、妻の立場からして、来ると分かっている日に軽率すぎる。ふつふつと怒りが湧きあがるものの、仁の温かく広い胸に抱かれる心地よさから、葵は、離れることが出来ない。葵もまた寂しく、仁に抱きしめて欲しかったのだ。



話しが終わると、葵は返事をする。





「わかりました」





責め立てたい気もちを押え、わかったと仁に告げる。その答えを聞いても、物分かりの良すぎる葵の答えに仁は不安を拭いきれない。こんな説明で葵が納得したとは仁も思っていない。説明、いや、言い訳が出来たという自己満足だけだ。小さな声で答えた葵の気持ちは分かるはずもなく、仁の心は不安でいっぱいだ。





「明日は何か予定があるのか?」

「……いいえ、特には」

「そう……実家に呼ばれているんだが、どうだろう」

「あ、そうですね。帰国の報告もしていないですしね。わかりました」





葵は、やんわりと仁の胸を押す。仁は抱きしめていた腕を解いた。



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