読書女子は素直になれない
最終話
二週間前、夏目家へ招かれた蓮は険しい顔つきで畳に正座する。目の前いる中年の男性は雛の父親である宗一(そういち)。その隣には母親の早苗(さなえ)が和服姿で陣取っている。
「それで鷹取君、君は雛との婚約を取り消したいと、こういう訳か」
「はい、申し訳ありません」
熊のように大きな体躯で威圧感溢れる宗一に対し、蓮も一歩も引かず堂々と自分の意見を言う。その意志の強さが目つきからも見て取れ、宗一も強く言えない。
「取り消すということは、会社に居られなくなるということだが、それも承知の上なんだろうな?」
「当然です。全責任を負う覚悟はできています」
「そうか、早苗、お前からは何かないか?」
話を振られた早苗は蓮の隣でニコニコする雛に問い掛ける。
「雛さん、貴女はそれでいいのかしら? 鷹取さんのこと、ずっと想ってらしたのに」
「お母様、雛は心から幸せになりたいのです。鷹取さんの心の中には私が想うよりも遥か前より、意中の方がおいでなのです。それを憚ることなぞ野暮の極み。私に対し全幅の気持ちない殿方との婚姻など出来ません」
雛の意見で婚姻の話は一応は決着し、蓮は頭を下げた。雛は蓮の気持ちを知って以降も取り立て動揺することもなく、ただの同僚として普通に振る舞っていた。
そして、千晶が婚姻関係を知ったことで距離を取っていると知ると、無理矢理結婚披露宴を行ってしまおうと無茶苦茶な提案をする。義妹の亜利紗もこの件にはノリノリで、夏目家では今後の作戦について連日連夜会合が行われていた。
「千晶ちゃんは純粋だけど、その分融通が効かない。単純一途って言えばいいか。だから、一度決めたことはずっと押し通す習性があるのよ。だから絶対に逃げられないような状況を作って、論理的ではなく素直に感情を吐き出せる場に引きずり出す。披露宴のような場ならそうそう逃げられないし、みんなの見ている前で選択を迫れば、きっと素の気持ちで回答してくると思う。勘だけどね」
そう言った雛はとても楽しそうな顔をしており、亜利紗もワクワクしている。
「私は兄様の押しの弱さもあると思うの。お優しい性格がプロポーズには不向きだと」
「うんうん、それはあるわね。ここは一つ強引とも取れるくらいの文句を作らないと。式の途中で蓮君が千晶ちゃんにむけて愛の朗読をさせてみるのはどうかしら?」
「二人の馴れ初めとかは外せませんわね。後は少々笑える要素も……」
蓮の意見が差し挟まれる隙もないくらい二人の計画は進み、一週間前はフロア内の全同僚にも式の趣旨を述べた上で協力を仰いだ――――
――現在、拍手が起こる中、壇上に並んで歩いて行く。その様子に同僚たちは祝福の言葉を投げかけ、中には『山月記』を早く返せとの野次も飛ぶ。暖かい祝福の中、二人が席に座るなり司会の雛が口を開き再び会場は静かになる。
「皆様からの暖かい祝福のお言葉、ありがとうございました。では、次に上司でもある渡辺琢磨課長祝辞を頂きたく思います」
紹介された琢磨は緊張しながらマイクスタンドに向かい、緊張感そのままに挨拶をし会場から笑われていた。穏やかな雰囲気とは裏腹に、気持ちが落ち着いてくると抱いていた疑問点が沸々と湧いてくる。我慢ができなくなると式が進む中、小声で蓮に問い掛ける。
「あの、蓮君。これってドッキリじゃないよね?」
「ある意味ドッキリだけど、式も俺の想いも本物だよ」
「雛先輩との件はどうなったの?」
「本人、ご両親含め、納得してもらったよ。会社にも残れるように配慮してくれた」
「そうなんだ、なんだか申し訳ないやら嬉しいやら、複雑な気分」
照れ笑いする千晶に蓮は微笑む。
「今日の式は職場に向けたものだから、千晶のご両親や親類の方を迎えての式はまた別に挙げるよ」
「まだ私の両親に挨拶もしてないのに、先に式挙げてるってどうなんだろう? でも、相手が蓮君なら納得かな」
「そうなのか?」
「うん、小学生の頃、イジメられてた私を助けてくれて両親と一緒に蓮君の自宅へお礼に行ったの覚えてる? あの時お母さんが言ってたの、付き合うなら蓮君みたいな人にしなさいって。だからきっと、この結婚も祝福してくれる」
「そっか、光栄だよ」
微笑む蓮に千晶も満面の笑みを返す。会場では声の裏返った琢磨が直立不動でスピーチを繰り広げていた。
二か月後、新居への引っ越しで二人はバタバタと駆けずり回る。ドッキリ結婚披露宴以降、両親への挨拶や親類への報告にと多忙を極めていた。千晶の言ったように、結婚相手が蓮と知った両親は二つ返事で結婚を承諾した。秋月家への挨拶も既に事情を全て知っていたこともあり、ことさら反対されることもなくホッとしている。
元許婚の雛は二人の気持ちを最初から察していたようで、披露宴以降も良き理解者として振る舞っている。ただ、義妹の亜利紗からすると雛の本心は昔から判断し辛く、どこか痩せ我慢しているかもと語っていた。後に翼への報告も済ませたが、あまりの急展開に目を丸くした。渡し忘れていた『山月記』を返すと苦笑いで受け取り、定型の祝辞だけを述べ去って行く。仲良くしていた分、寂しい思いもあったがこれから始まる蓮との人生においても着けるべきケジメであり心を鬼にした。
琢磨に提出した辞表は撤回し、約束通り美優には頭を下げランチも奢った。披露宴の日、機嫌が悪かったのは式の主役でライバルでもあった千晶への嫉妬だと語り大変納得した。明け透けに語り合ったこともあって、美優とは仲が良いやら悪いやらでとにかく親密となっている。
真新しいフローリングの床に座ったまま実家からの荷を開封していると、卒業アルバムと一緒に懐かしい本が見られる。手に取ると千晶は蓮を呼び嬉しそうに言う。
「蓮君から借りた『山月記』。ちゃんと大事にとってたんだよ。思い出と一緒にね」
「ああ、ありがとう」
「借りたままパクった訳じゃないからね?」
「分かってるって」
「あと、Cカップありますから」
「分かってるって、もう披露宴のときのこと責めるなよ。冗談なんだから」
頬を掻きながら困り果てる蓮を見て含み笑いをする。
「この『山月記』に出てくる李微は、自分の才能に過信し傲慢になり、内にある弱さを虎という虚栄心で覆った。私も弱くて自分の本心に向かい合うことが出来なかった。でも、蓮君が向かい合う勇気と愛をくれた。小学生のときから蓮は私の支えだった。これからは私が蓮君を支える番。頼りにならないかもしれないけど、どうぞ末永く宜しくお願いします」
「こちらこそ宜しくお願いします」
座ったまま頭を下げる千晶に蓮も頭を下げた。笑い合い目線が重なると身を寄せ合い唇を重ねる。手から滑り落ちた『山月記』は孤独に吠えることなく、二人の幸せを静かに見守っていた。
(了)
※参考文献、中島敦『山月記』。夏目漱石『こころ』