無常の日々はすみれ色に輝く
私は、小学生のとき不登校になった。

夢や希望に溢れるはずの一年生に事故が起こった。

担任とのそりが合わなかった。

担任は、当時50代の女性教師だった。

自分の教えかたが一番正しいと思っている人だった。

出来る生徒と出来ない生徒をハッキリ分けた。

もともと運動を苦手とし話すことに積極性がない私は“出来ない組”だった。

精神的に弱かった私は見えない圧で押し潰されそうだった。

異常がおこった。

ある朝、登校するため最後の準備にトイレに行った。だが尿意はあるのにどうしても出ない。

…はやく…はやくしないと…遅れる

焦れば焦るほど出ない。

この症状が、授業中にも表れだした。

「先生…トイレ行かせて下さい。」 

一回目、出ない。数分待つが出ない。

教室に戻る。

また尿意。

「…あの、先生トイレ。」

二回目、また出ない。

また教室に戻る。

三回目、担任は私を叱責した。

そんなことが毎日起こった。

私は、耐えきれず母に「学校に行きたくない。」と言った。

母は、小学校に出向いた。娘の症状について話し学校での問題について担任に話した。

思ってもみない言葉が、担任からかえってきた。

「お家でのしつけが、甘いのではないでしょうか?私どもは的確な教育をしているつもりです。しっかりお家での教育をしてください。」

1990年代後半だったこの時代、あまり不登校についてメディアなどで取り上げられておらず世間の風当たりは強かった。

後に私が、小学校を卒業して間もなくあの担任教師は違う小学校に転属するのだが私と同じ生徒が続出。教師を辞したそうだ。

私は、このあと父の会社の転勤で違う市に移り住むがトラウマで6年間小学校には行かなかった。

ありがたいことに小学校に単位はなく登録さえしておけば卒業させてもらえた。

転勤先の学校の先生たちは私のことを気にかけてくれて度々家庭訪問という形でコミュニケーションをはかってくれた。

田舎だったことがこうをそうしたのだった。

学校に行けない間、児童相談所でのカウンセリング。勉強は、通信教育で小学校分の基礎知識を詰め込んだ。

そんな幼少期を過ごし地域の違う私立中学を受験した。

誰も知らない

私の過去

再スタートをきる

両親のため 

周りで支えてくれた大人のため

そして

体裁のため。




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