感情先生

全てを

今朝、妻が静かに息を引き取った。



私はもう何時間も座った状態で
何も出来ないまま動けずにいる



少し開いたふすまの隙間から
孫たちが私の様子を覗いている



どうも人間は、
物凄く驚いたり、
予想も出来ないほど大きなショックを受けると、
声どころか涙も出なくなってしまうらしい。



何をすればいいのかわからない。頭がうまく働 かない。

出口のない迷路に迷い込んでしまったように、 いろんな感情がぐるぐるしている。

不意に後ろから優しく肩を叩かれる。

振り向くと娘の愛が心配そうに私の顔を覗き 込み話しかける。 「お父さん、朝から何も食べてないでしょ?ご 飯あるよ?」

「……いらない。」 私にはこの一言が精一杯だった。

愛は少し悲しそうに 「そっか。」 と呟き私の横にそっと腰を下ろした。

しばらくの間、沈黙がふたりの空間を支配していた。

不意に愛が口を開いた。 「お母さん、どんな人だったの?」

私は驚き娘に聞き返した、 「どうしてそんなことを聞く?」

愛は少し淋しそうに答えた。 「さっきみんなでお母さんの遺品の整理をしていたの。」

「……何かでてきたのか?」私は不思議に思い聞き返した。

愛はゆっくりと首を横に振って答えた。 「……その逆。お母さんの部屋からは本当にいろいろなものが出てきた。私たちの幼いころの写真、お父さんがプレゼントしたいくつかの装飾品、たくさんの本、編みかけの服、記 念写真。でも、お母さんの若いころの写真だけはどこを探してもないの。いいえ写真だけじゃない、あるのは全部、私が生まれた後のものばかり……。」

私はうつむいて愛の視線から顔を背ける。 「…………。」

愛は優しく問いかける。 「昔、お母さんに何かあったの?」

私は何も答えなかった。 「…………。」

「答えてお父さん。私はお母さんの娘よ、聞く権利があると思うわ。」 愛の声には必死さが感じられた。

仕方がないと思った。 「わかった。お前たちに母さんの全てを話そ う。みんなを呼んで私の部屋に来なさい。」 ――――いつかこのときが来るのではないかと 少しは覚悟していた。 これまでの出来事を子供たちに打ち 明けるときが来るのではないかと。 今がそのときならば隠すことなく全 てを話さなければならない

私は心に重たい塊を残したままゆっくりと自分 の部屋へ向かった。
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