Love Butterfly
「ちょっと、練習するから、先風呂入れよ」
「練習?」
 俺は毎日、家に帰って、包丁の練習をする。店で残った野菜クズをもらって帰って、とにかく、練習をする。
「何してんの?」
「これ? 包丁の練習。板前は、これができないと、一人前にはなれないんだ」
 コタツの上に、まな板を広げて、ひたすら野菜を切る。

 修行を始めてみたものの、「花倉」は老舗の割烹で、入ってくる新入りは、みんな調理師学校とか、家が料理屋だとか、もうすでに料理の基本を知ってるヤツばっかりで、本気で俺みたいなズブの素人は、いなかった。俺の仕事は、洗い場や掃除から始まって、言葉使いやら、行儀作法やら、髪の毛もバリカンで刈られて、ちょっとでも反抗したら、思いっきり殴られて、もちろんタバコも取り上げられて、はっきり言って、少年院より、厳しい生活だった。
 特に、恐ろしく厳しいのが、板長の岡田さん。体はそんなでかくないけど、とにかく、恐ろしい。でも、料理の腕は最高で、先生の料理よりも、岡田さんの料理を食べにくるお客さんもいるくらいだった。俺はもう、毎日のように岡田さんに怒鳴られて、殴られて、時々蹴られて……何回か、逃げ出したけど、その都度、岡田さんが連れ戻しに来て、また殴られて、正座で説教されて。
 嬉しかった。こんな出来損ないの俺を、見捨てずに、どんなに俺がヘマしても、反抗しても、先輩に刃向かっても、岡田さんは絶対俺を見捨てずにいてくれた。
「いいか、村木。技なんてものはな、練習でどうにでもなるんだ。大切なのは、心だ。どんなに技があっても、心のない料理人の料理なんて、食えたもんじゃねえ。好きになれ。料理を、好きになれ。大切な人間に、うまいもんを食わせて、笑わせてやれ。それをできるのが、最高の料理人だ」
 その話は、耳が腐るほど聞かされたけど、でも、その通りだと思っている。俺はまだペーペーだけど、いつかは、岡田さんみたいな、でっかい男になって、最高の料理を出したい。俺はその時のために、冷たい水でゴミ箱を洗って、先輩に怒鳴られて、毎日毎日、野菜クズを切っている。

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