君と奏でるノクターン
夫人は動揺と不安で、何も言えずにいる郁子の肩を、優しく包みこむ。


「郁子、このピアノの何処かに詩月のサインがあるのよ。見付けてごらんなさい」


「あっ……たしか周桜くんが留学前に、サインを書いたって」


「ええ、ウィーンに発つ数日前だったかしら」


「あの……探してもいいですか」


「ええ、詩月からのメッセージが届くといいわね」

郁子はピアノの上、鍵盤、ピアノの裏、ペダル、側面……様々な場所を探す。
背伸びをしたり屈んだり、覗きこむよう念入りに。



――何処に書いたの?


郁子の口から愚痴が出る。
店長夫妻が目を細めて、その様子を見守っている。

郁子は椅子を引き、身を屈め、膝を床につき、鍵盤の下に入りこみ、上を見上げた。


――あ……っ


流れるように滑らかな筆跡、横滑りのアルファベットと芸能人顔負けの崩し文字の名前。


――「Musik-Herz」周桜詩月


「……『音楽は心』」


郁子は、その文字を指でなぞる。

郁子の頬をゆっくりと一筋、涙が伝った。
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