ビターチョコ
授業になんか、集中できるはずもなかった。
あんなキスシーンなんて見せられたら、気が気じゃない。
深月に、つい目線がいってしまう。
集中を欠いても、期末テスト明けは間違えやすかった問題の解説だから、ユルくて助かったのだけれど。
授業を終えると、軽音楽サークルの活動は明日からだと言われた。
今日はゆっくり休んで、明日からに備えるという。
お言葉に甘えて帰宅しようとしたら、バイト先に寄るのを忘れていた。
このまま忘れると、休憩時間によく読んでいた参考書を買い直す羽目になる。
それは勘弁してほしかった。
バイト先の裏口からバックルームに入ると、既に先客がいた。
その人は、私より大分年上の女性だ。
大学生くらいだろうか?
髪は男の人と見紛うくらい短い。
メイクをしているのと、胸が割とあるので女性だと分かる。
「あら、お疲れ様」
「お疲れ様です……」
あまり関わりたくないな。
そもそも、あまりバイト中に話したことのない先輩だった。
早くロッカーを開けて、私物を取って帰ろう。
といっても、私物はバイトに使うメモとペン、休憩時間によく読んでいた、受験に使う参考書だけだが。
このまま、何事もなく帰れますように。
そう思った、矢先のことだった。
「ねぇ、店長のこと、どう思う?」
「自分より従業員とお客様第一、今回の一件でも、自分のポケットマネーから給料分を出してくれていますし、いい方だと思いますよ」
「ふーん。」
そう言ってはいるが、目線は冷たい。
氷みたいな瞳、とはこのことを言うのだろう。
「特定の方への悪口には加担しない主義ですので。
失礼します。」
私がそう言うと、その先輩は逃げ道を塞ぐように、私の目の前に立った。
「店長のこと、気に入ってるのね。
そりゃ、貴女は休憩時間も、店長によく話しかけられていたものね。
私はあの店長、嫌いだったけど。
気に入ってる子だったり、シフトに多く入れる子には愛想よくして。
シフトにあまり入れない私みたいな子は、ずっと雑用ばっかり。
ひどいと思わない?
こんなカフェより時給良くて経営状態もいいところ、他にもたくさんあるわ。
そこで雇ってもらおうかしら」
「こんなカフェって、言い方はないかと思いますよ?
店長、私達に申し訳ないって、あの日泣いてました!
そんな優しい人の気持ちを踏みにじるような真似はしたくありません!
それに、あなたはミスした子に、何のフォローもせず、見下したように鼻で笑うだけでしたよね?
いちばんショックなのは、あの子の方なのに。
使えない子、と寄ってたかってその子をいじめていた主犯格はあなたですよね?
そういう人間性は、面接官はすぐに見抜きますので、どこのバイトにも雇われないと思いますけど」
そう正論をぶつけて、その場を去ろうとしたら手首を掴まれた。
どこから出してきたのか、包丁を向けられた。
このままだと胸を刺されるな、と思うくらいには冷静だった。
「貴女みたいな、成人もしていないおこちゃまに、偉そうに説教される筋合いはないわよ!
分かったような口をきいて!
私は、学費のために働いているのよ?
奨学金だって、借りてるんだから!
私に指図するな!」
刃物を見境なくぶんぶん振り回す。
もう、どこかの狂気じみた通り魔みたいだ。
逃げようとしたら、脚が何かに引っかかって転んだ。
「いたっ……」
転んだ上から、刃物が振り下ろされる。
その手は、止まっていた。
「そういうの振り回すの危ないよ?」
私の見たことのない男の人。
男の人が一発、強烈な蹴りを入れて、女の人の掌から落ちた包丁を回収する。
片方の広角を上げた笑い方は、誰かに似ている気がした。
しかし、こういう状況下では、とてもじゃないが思い出せない。
「……理名ちゃん!」
聞き覚えのある、低い声。
エンジ色の斜め縞ネクタイに、濃紺のブレザーにスラックス。
拓実くんだ。
「大丈夫?理名ちゃん。
琥珀のお父さん、すみません。
アイツに言われたんですよね?
見張ってろ、って」
差し出された手を握って、温い手の感触に酔いしれたのもつかの間、立つ際にフラついた。
「理名ちゃん!
すごい熱だな……
もうすぐで、俺の親父が来るはずなんです。
それまで寝かせましょう。
とりあえず、水分補給だな。
あ、奈斗さん、スポドリをありがとうございます。」
「ん……」
柔らかい感触と共に、スポドリ独特の味を感じた。
好きな人の前でゴクリ、と喉を鳴らして飲む。
「よしよし、よくできました」
後で知ることとなる。
このとき、口移しでスポドリを飲まされていたということを。
やがて、2回短いクラクションが鳴った。
「親父のお出ましだ。
もう少しで楽になるからね、理名ちゃん」
彼の顔のまま歳をとらせたらこうなるだろう、という顔立ちの白衣姿の男の人が歩いてくる。
軽々と身体は抱き上げられて、身体の側面から伝わる心臓の鼓動は少し速い。
一定のリズムと体温に身体を預ける。
「親父。
この子、今は寝てるけど熱あるんだ。
診察してやってくれるか。
何ならカロナール出して」
「そうだな。
診察次第だが、まずは解熱させないとな」
そんな話をぼんやりと聞いているうちに、意識は遠くなっていった。
「……ん……」
目を覚ますと、ベッドに横になっていた。
「急性上気道炎。
つまり風邪だね。
カロナール、効いたみたいで良かった。
まだ顔赤いけど、大丈夫?」
顔が赤いのは、拓実くんのせいだ。
仮にも気になる人に、真剣な顔で見つめられて顔を赤くしない人なんていない。
風邪が治るまで、拓実くんの家に泊まらせてもらった。
風邪が治った日の夜、夕ご飯をごちそうになった。
野菜スープに親子丼だった。
病み上がりに肉とは意外だったが、脂身が少ないお肉は、風邪で失われた栄養素を補ってくれるようだ。
「君のお母さん、鞠子さんだったか。
鞠子さんには、ウチから緊急搬送したお子さん受け入れて貰ってね。
医療への情熱が素晴らしい、良い方だった。
惜しい方を亡くしたな」
拓実くんの父親にはそう言われた。
「おい、親父。
あまり亡くなった母親のことを言うなよな。
ツラい思いさせるだけだろうが」
拓実くんはそう窘めたが、私はそんな彼を制して、言った。
「いいんです。
そんな母を尊敬していますし、母を超える医療従事者になりたいと、今は本気で思います。
大学病院で働くか、貴院のような場所で働くかは決めていないですが」
「君は大人だな。
いいんだよ、ウチの病院のことはね。
拓実にも、継ぐにしても、大学病院で臨床経験を積んでからウチを継げと言ってある」
彼氏の親に挨拶に来た彼女を泊まらせてくれたような雰囲気だ。
なんだかこそばゆい。
お風呂までいただいた後、夜になってしまったし送って行ってくれるという。
拓実くんは、本当は行きたいところだが、卓球部の朝練があるので早く寝るという。
「ごめんね?
おやすみ、理名ちゃん」
そう言って、くしゃくしゃと頭を撫でてくれた拓実くん。
何だか、よく椎菜が麗眞くんにされているそれみたいだ。
そのことを父親に伝えると、ちょうど帰るころだし、外で待っているという。
白い軽自動車の助手席に拓実くんの両親、後部座席に私。
1時間ほど走ると、私の住むオンボロ一軒家が見えてきた。
その前に、私の父がいた。
車が停まると、私に降りるように言った後、拓実くんのご両親も車から降りた。
「この度は、ウチの理名が大変お世話になりました。」
「いえいえ、こちらこそ。
理名ちゃん、ウチの拓実をよろしくね。
何なら、医学部研修中に結婚もウェルカムよ」
拓実のお母さんが、自分の夫と、私の父に聞こえないように耳元でそう言ってきた。
その後、名刺まで渡されてしまった。
「困ったら、ここに連絡してください。
医療従事者の家族同士、何か手助けできることもあると思いますし」
「ありがとうございます」
ニコニコとしている父親を久方ぶりに見た。
「お世話になりました。
ぜひ、これからよろしくお願いいたします」
拓実くんのご両親に、父と2人で頭を下げて、車を発進させるまで見送った。
「……いい人を、選んだな、理名。
楽しみにしてるぞ、ウエディングドレス姿」
え?
ちょっと、お父さんまで何を言うんだ。
結局、その日はなかなか寝付けなかった。
あんなキスシーンなんて見せられたら、気が気じゃない。
深月に、つい目線がいってしまう。
集中を欠いても、期末テスト明けは間違えやすかった問題の解説だから、ユルくて助かったのだけれど。
授業を終えると、軽音楽サークルの活動は明日からだと言われた。
今日はゆっくり休んで、明日からに備えるという。
お言葉に甘えて帰宅しようとしたら、バイト先に寄るのを忘れていた。
このまま忘れると、休憩時間によく読んでいた参考書を買い直す羽目になる。
それは勘弁してほしかった。
バイト先の裏口からバックルームに入ると、既に先客がいた。
その人は、私より大分年上の女性だ。
大学生くらいだろうか?
髪は男の人と見紛うくらい短い。
メイクをしているのと、胸が割とあるので女性だと分かる。
「あら、お疲れ様」
「お疲れ様です……」
あまり関わりたくないな。
そもそも、あまりバイト中に話したことのない先輩だった。
早くロッカーを開けて、私物を取って帰ろう。
といっても、私物はバイトに使うメモとペン、休憩時間によく読んでいた、受験に使う参考書だけだが。
このまま、何事もなく帰れますように。
そう思った、矢先のことだった。
「ねぇ、店長のこと、どう思う?」
「自分より従業員とお客様第一、今回の一件でも、自分のポケットマネーから給料分を出してくれていますし、いい方だと思いますよ」
「ふーん。」
そう言ってはいるが、目線は冷たい。
氷みたいな瞳、とはこのことを言うのだろう。
「特定の方への悪口には加担しない主義ですので。
失礼します。」
私がそう言うと、その先輩は逃げ道を塞ぐように、私の目の前に立った。
「店長のこと、気に入ってるのね。
そりゃ、貴女は休憩時間も、店長によく話しかけられていたものね。
私はあの店長、嫌いだったけど。
気に入ってる子だったり、シフトに多く入れる子には愛想よくして。
シフトにあまり入れない私みたいな子は、ずっと雑用ばっかり。
ひどいと思わない?
こんなカフェより時給良くて経営状態もいいところ、他にもたくさんあるわ。
そこで雇ってもらおうかしら」
「こんなカフェって、言い方はないかと思いますよ?
店長、私達に申し訳ないって、あの日泣いてました!
そんな優しい人の気持ちを踏みにじるような真似はしたくありません!
それに、あなたはミスした子に、何のフォローもせず、見下したように鼻で笑うだけでしたよね?
いちばんショックなのは、あの子の方なのに。
使えない子、と寄ってたかってその子をいじめていた主犯格はあなたですよね?
そういう人間性は、面接官はすぐに見抜きますので、どこのバイトにも雇われないと思いますけど」
そう正論をぶつけて、その場を去ろうとしたら手首を掴まれた。
どこから出してきたのか、包丁を向けられた。
このままだと胸を刺されるな、と思うくらいには冷静だった。
「貴女みたいな、成人もしていないおこちゃまに、偉そうに説教される筋合いはないわよ!
分かったような口をきいて!
私は、学費のために働いているのよ?
奨学金だって、借りてるんだから!
私に指図するな!」
刃物を見境なくぶんぶん振り回す。
もう、どこかの狂気じみた通り魔みたいだ。
逃げようとしたら、脚が何かに引っかかって転んだ。
「いたっ……」
転んだ上から、刃物が振り下ろされる。
その手は、止まっていた。
「そういうの振り回すの危ないよ?」
私の見たことのない男の人。
男の人が一発、強烈な蹴りを入れて、女の人の掌から落ちた包丁を回収する。
片方の広角を上げた笑い方は、誰かに似ている気がした。
しかし、こういう状況下では、とてもじゃないが思い出せない。
「……理名ちゃん!」
聞き覚えのある、低い声。
エンジ色の斜め縞ネクタイに、濃紺のブレザーにスラックス。
拓実くんだ。
「大丈夫?理名ちゃん。
琥珀のお父さん、すみません。
アイツに言われたんですよね?
見張ってろ、って」
差し出された手を握って、温い手の感触に酔いしれたのもつかの間、立つ際にフラついた。
「理名ちゃん!
すごい熱だな……
もうすぐで、俺の親父が来るはずなんです。
それまで寝かせましょう。
とりあえず、水分補給だな。
あ、奈斗さん、スポドリをありがとうございます。」
「ん……」
柔らかい感触と共に、スポドリ独特の味を感じた。
好きな人の前でゴクリ、と喉を鳴らして飲む。
「よしよし、よくできました」
後で知ることとなる。
このとき、口移しでスポドリを飲まされていたということを。
やがて、2回短いクラクションが鳴った。
「親父のお出ましだ。
もう少しで楽になるからね、理名ちゃん」
彼の顔のまま歳をとらせたらこうなるだろう、という顔立ちの白衣姿の男の人が歩いてくる。
軽々と身体は抱き上げられて、身体の側面から伝わる心臓の鼓動は少し速い。
一定のリズムと体温に身体を預ける。
「親父。
この子、今は寝てるけど熱あるんだ。
診察してやってくれるか。
何ならカロナール出して」
「そうだな。
診察次第だが、まずは解熱させないとな」
そんな話をぼんやりと聞いているうちに、意識は遠くなっていった。
「……ん……」
目を覚ますと、ベッドに横になっていた。
「急性上気道炎。
つまり風邪だね。
カロナール、効いたみたいで良かった。
まだ顔赤いけど、大丈夫?」
顔が赤いのは、拓実くんのせいだ。
仮にも気になる人に、真剣な顔で見つめられて顔を赤くしない人なんていない。
風邪が治るまで、拓実くんの家に泊まらせてもらった。
風邪が治った日の夜、夕ご飯をごちそうになった。
野菜スープに親子丼だった。
病み上がりに肉とは意外だったが、脂身が少ないお肉は、風邪で失われた栄養素を補ってくれるようだ。
「君のお母さん、鞠子さんだったか。
鞠子さんには、ウチから緊急搬送したお子さん受け入れて貰ってね。
医療への情熱が素晴らしい、良い方だった。
惜しい方を亡くしたな」
拓実くんの父親にはそう言われた。
「おい、親父。
あまり亡くなった母親のことを言うなよな。
ツラい思いさせるだけだろうが」
拓実くんはそう窘めたが、私はそんな彼を制して、言った。
「いいんです。
そんな母を尊敬していますし、母を超える医療従事者になりたいと、今は本気で思います。
大学病院で働くか、貴院のような場所で働くかは決めていないですが」
「君は大人だな。
いいんだよ、ウチの病院のことはね。
拓実にも、継ぐにしても、大学病院で臨床経験を積んでからウチを継げと言ってある」
彼氏の親に挨拶に来た彼女を泊まらせてくれたような雰囲気だ。
なんだかこそばゆい。
お風呂までいただいた後、夜になってしまったし送って行ってくれるという。
拓実くんは、本当は行きたいところだが、卓球部の朝練があるので早く寝るという。
「ごめんね?
おやすみ、理名ちゃん」
そう言って、くしゃくしゃと頭を撫でてくれた拓実くん。
何だか、よく椎菜が麗眞くんにされているそれみたいだ。
そのことを父親に伝えると、ちょうど帰るころだし、外で待っているという。
白い軽自動車の助手席に拓実くんの両親、後部座席に私。
1時間ほど走ると、私の住むオンボロ一軒家が見えてきた。
その前に、私の父がいた。
車が停まると、私に降りるように言った後、拓実くんのご両親も車から降りた。
「この度は、ウチの理名が大変お世話になりました。」
「いえいえ、こちらこそ。
理名ちゃん、ウチの拓実をよろしくね。
何なら、医学部研修中に結婚もウェルカムよ」
拓実のお母さんが、自分の夫と、私の父に聞こえないように耳元でそう言ってきた。
その後、名刺まで渡されてしまった。
「困ったら、ここに連絡してください。
医療従事者の家族同士、何か手助けできることもあると思いますし」
「ありがとうございます」
ニコニコとしている父親を久方ぶりに見た。
「お世話になりました。
ぜひ、これからよろしくお願いいたします」
拓実くんのご両親に、父と2人で頭を下げて、車を発進させるまで見送った。
「……いい人を、選んだな、理名。
楽しみにしてるぞ、ウエディングドレス姿」
え?
ちょっと、お父さんまで何を言うんだ。
結局、その日はなかなか寝付けなかった。