ビターチョコ
家に帰ると、父は買ってきた缶コーヒーを机に置いてから、一度コツンと鳴らして一口飲む。
そのまま全て飲み干すと、リビング近くのゴミ箱に捨ててから、私に問いかけた。

「楽しいか?
高校は」

父からの問いに、小さく頷く。

「そうか、それならよかった」

「来週2泊3日でオリエンテーションあるの。
お父さん一人だけどごめん」

「いいんだよ、適当に食べるから」


 少しの沈黙の後、父が思わぬことを聞いてきた。


「気になる男でもできたか?」


思わず、父の顔を二度見では飽き足らず、3度見してしまった。
その問いには答えずに、静かに2階に上がった。

……言えるわけがない。
 「気になる人」という問いに、あろうことか友達の彼氏(厳密には彼氏に限りなく近い友達らしい)のことが頭に浮かんだなどと。

本人に言ったら、愛想を尽かされて、貴重な友達を1人失うことになるかもしれない。
数秒考えた後、ジャージの上下を持ってリビングに降り、しょぼくれる父を横目に、給湯器のスイッチをつけた。


「お父さん、さっきの質問には答える気ないから。
お父さんが仕事の後に、誰と会ってるのか教えてくれるまではね?」

それだけを言って、脱衣場に籠った。
今日はいろいろなことで、頭がいっぱいになった。

シャボンの香りのボディーソープを身体にまとわせて、熱いシャワーで洗い流す。
セ氏40度のお湯に肩まで浸かって頭を整理しようと試みる。

さきほどの父の問いに、なぜか麗眞くんの顔が一瞬だけ浮かんだ事実。
それを頭から抹消すべく、何度も何度も首を振る。
麗眞くんには椎菜ちゃんがいるのだ。
好きになってはいけない人なのだ。

しばらく恋愛というものから遠ざかっていた(興味すらなかったというほうが正しい)ため、

「好き」という気持ちがどういうものなのか全く分からなくなっていた。
麗眞くんへの友情を、恋愛感情とごちゃまぜにしているだけかもしれない。
そう結論づけた。


浴槽からあがって、メイクを落とすと、バスタオルで身体を包んでから髪にドライヤーを当てて乾かす。

ショートヘアは楽だ。
ドライヤーを長い間当てずとも、すぐに乾いてくれる。
中学生のときの京都への修学旅行のときも、ドライヤーの順番待ちをしているロングヘアの女子たちを醒めた目で見ていたことを思い出す。

そして、中学校の頃のジャージを着る。
学校名なんて何も入っていない、ただの紺のジャージ。
トレーナーの左胸部分とズボンの左上に名字が刺繍してあるだけのものだ。
特に思い入れなんてない。
まだ着られるから着ているだけである。
お風呂から上がると、父がコップに注いだ水を飲んでいた。

「お風呂あがったよ?
入れば?」


「ああ、入るよ、ありがとう」


「私、もう寝る。
おやすみ」

「ああ、お休み」


コップに注いだミネラルウォーターをシンクに置いてから自室のベッドに潜り込んだ。
先ほどすれ違った、父の様子を思い浮かべてみる。

父の呼吸が平静の時より乱れていたような気がする。
腕を組むふりをして、胸の辺りを抑えていた気がする。

……思い過ごしだ。
きっと、そうに違いない。

そう思い込むと、先ほどの父の姿は、私の記憶からは既に消えてしまっていた。
この異変に気づかなかったことが、何年か経った後に、大変なことになるなんて、思ってもいなかった。
この時、もっと気にかけていれば、良かったのに。

携帯電話の充電が開始されているのを視界の端にとらえて、眠りについた。

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