ビターチョコ
伊藤先生は、私たちの座っている病室側のソファーには座らず、所在なさげにキョロキョロしている。
「先生?
座ればいいじゃないですか。
どうせプロの医者が出てきた時点で、養護教諭は足手纏いにしかなりません。
それは、貴女が一番わかってるんじゃないですか?
大丈夫です、気管支炎はきちんと治療すれば命に関わることはないですし。
凜さんの彼女への接し方からして、この病院の常連さんだったみたいですし」
「そうそう。
理名ちゃんの言う通りだと思いますけど。
伊藤先生?
変なプライドなんて捨てて、黙って待ってるしかないと思いますよ」
先生に生意気な口をきく生徒ということで、この評判が担任の先生のもとに伝われば、評価はガタ落ちだろう。
もう、気にしないことにした。
自分が正しいことをしたと思えば、それでいいのだ。
他者からの評価なんて気にするだけ無駄だ。
私と麗眞くんの間に座った伊藤先生は、小さく息を吐いてから、こう言った。
「ごめんなさいね。
変なプライドなんて、とっくに捨てたと思ってたのに。
そうじゃなかったのね」
「伊藤先生自身が、医者か看護師を目指されていた、ってことですか?」
「ええ、そうよ」
「じゃあ、どうして諦めたんですか……」
諦めないで、追えばよかったのに。
母を目指して、必死に夢を追いかけている自分だからこそ、そう言いたくなった。
「医学部は、とても学費が高くて、奨学金も借りられなかったわ。
父親が借金を抱えてたから。
母も、奨学金借りてまで医学部に行くのに反対したから。
だから、養護教諭の資格が取れる大学と学科に進んだのよ。
奨学金のことも相談したら、勤労奨学金を申請させてくれた。
それとアルバイトでなんとかやっていけたからね」
「そんなので、たったそれだけで、諦めたんですか?
正直言って、ダサいです。
カッコ悪いですよ。
本当に、その道に進みたいなら、熱意を、覚悟を、見せるべきです!
それをしなかったのか、出来なかったのか、それは分からないですけれど。
そんなんじゃ、『本気じゃないんだな』って受け取られるに決まってるじゃないですか!
所詮、その程度だったってことですよ。
養護教諭で妥協したってことは、それでよかったんですよね?
でも、失った時間は取り戻せませんよ?
有限ですからね。
さっきの対応からして、伊藤先生、看護師向きだと思います」
「……もう、いいんです」
「でも、さっき凜さんの、椎菜ちゃんへの、対応を見た時の伊藤先生、野球選手や宇宙飛行士に憧れる少年みたいなキラキラした目をしていました。
なんで、すぐに諦めるんですか?
それが、大人のすることですか?」
「そうそう。
仮にも先生はさ、俺たちに『夢を諦めないで』っていう立場じゃん?
その人があっさり夢を諦めてどうするの?
生徒たちに示しつかないでしょ、ってこと」
「岩崎さん、宝月くん……!
……ありがとう。
そうよね、私、大事なことを忘れていた気がするわ」
目にうっすら涙を滲ませる伊藤先生を見て、決意を新たにした。
なんだか私も、今は亡き母の顔に泥を塗らないくらいの医者になろうと強く思ったのだ。
すると、私のスマホが振動した気がした。
キョロキョロ辺りを見回して、携帯電話が使えるスペースを探して歩いた。
「廊下をまっすぐ行って、突き当たりを右に曲がった先にあるわよ?」
すれ違った看護師さんが教えてくれた。
さすがに、通話スペースの場所までは覚えていなかったから、助かった。
丁寧に頭を下げて、スマホを片手に携帯電話が使えるスペースに向かった。
看護師さんに、教えてもらった通りに進む。
電話のマークが見える。
『この場所以外で携帯電話は使用しないでください』の表示。
ここで間違いない。
着信は、深月ちゃんからだった。
『あ、理名ちゃん?』
かけ直すと、深月ちゃんの明るい声がした。
彼女の明るい声は、私の心を少しだけ明るく照らしてくれた。
「どうしたの?
何かあった?」
『んーん。
なかなか帰ってこないから、どうしたのかなって。
理名ちゃんのこと、待ちくたびれて寝ちゃいそうな人がいるから。
野川ちゃんと陽花ちゃん』
「なるほど、そういうことね」
電話を受けながら、時計を見ると、針は10時を示そうとしていた。
「深月ちゃん、あのね、椎菜ちゃん、気管支炎の疑いが強いんだ。
今、麗眞くんと養護の伊藤先生と、病院にいるの。
そっちの研修センターに戻れるか微妙なのよね。
戻れたとしても、消灯時間を完全に過ぎちゃうしから。
伊藤先生の部屋で過ごすことになりそうなんだ」
『そっかぁ、了解。
皆にも伝えておくね?』
「明日には回復してると思うけどね、椎菜ちゃん。
気管支炎ってそんな重篤な症状のものじゃないし」
『さすが。
医療従事者家系の血は争えないってね。
じゃあ、とりあえずおやすみなさい、理名ちゃん。
何かあったらSMS飛ばして?
まだしばらく、美冬ちゃんや華恋ちゃんたちと一緒に小一時間くらいは起きてるから』
その後、電話は切られた。
通話スペースから麗眞くんや伊藤先生がいるところに戻る。
彼らは、誰かと話しているようだ。
凛先生だ。
「全く。
あの子ったら。
自分がそうだからって先生にまで啖呵きったのね。
でも、そういうところ見てると、まるで鞠子さんを見てるようで。
ほっとけないのよ。
……あの人も、そうだった。
自分の信じた道をまっすぐ進む人だった。
何があっても後ろはめったに振り返らない、強い人だったわ」
聞こえてきたのは、凛さんのそんな言葉。
一筋、目から零れた涙をぐいと拭う。
泣いている姿は見せられない。
彼らが待つソファーに戻った。
「麗眞くん、伊藤先生?」
「あら、理名ちゃん。
ごめんね?
待ちくたびれちゃったかしら?」
凛先生がこの場にいる。
その事実は、椎菜ちゃんの処置は無事に終わったことを示していた。
「先生?
座ればいいじゃないですか。
どうせプロの医者が出てきた時点で、養護教諭は足手纏いにしかなりません。
それは、貴女が一番わかってるんじゃないですか?
大丈夫です、気管支炎はきちんと治療すれば命に関わることはないですし。
凜さんの彼女への接し方からして、この病院の常連さんだったみたいですし」
「そうそう。
理名ちゃんの言う通りだと思いますけど。
伊藤先生?
変なプライドなんて捨てて、黙って待ってるしかないと思いますよ」
先生に生意気な口をきく生徒ということで、この評判が担任の先生のもとに伝われば、評価はガタ落ちだろう。
もう、気にしないことにした。
自分が正しいことをしたと思えば、それでいいのだ。
他者からの評価なんて気にするだけ無駄だ。
私と麗眞くんの間に座った伊藤先生は、小さく息を吐いてから、こう言った。
「ごめんなさいね。
変なプライドなんて、とっくに捨てたと思ってたのに。
そうじゃなかったのね」
「伊藤先生自身が、医者か看護師を目指されていた、ってことですか?」
「ええ、そうよ」
「じゃあ、どうして諦めたんですか……」
諦めないで、追えばよかったのに。
母を目指して、必死に夢を追いかけている自分だからこそ、そう言いたくなった。
「医学部は、とても学費が高くて、奨学金も借りられなかったわ。
父親が借金を抱えてたから。
母も、奨学金借りてまで医学部に行くのに反対したから。
だから、養護教諭の資格が取れる大学と学科に進んだのよ。
奨学金のことも相談したら、勤労奨学金を申請させてくれた。
それとアルバイトでなんとかやっていけたからね」
「そんなので、たったそれだけで、諦めたんですか?
正直言って、ダサいです。
カッコ悪いですよ。
本当に、その道に進みたいなら、熱意を、覚悟を、見せるべきです!
それをしなかったのか、出来なかったのか、それは分からないですけれど。
そんなんじゃ、『本気じゃないんだな』って受け取られるに決まってるじゃないですか!
所詮、その程度だったってことですよ。
養護教諭で妥協したってことは、それでよかったんですよね?
でも、失った時間は取り戻せませんよ?
有限ですからね。
さっきの対応からして、伊藤先生、看護師向きだと思います」
「……もう、いいんです」
「でも、さっき凜さんの、椎菜ちゃんへの、対応を見た時の伊藤先生、野球選手や宇宙飛行士に憧れる少年みたいなキラキラした目をしていました。
なんで、すぐに諦めるんですか?
それが、大人のすることですか?」
「そうそう。
仮にも先生はさ、俺たちに『夢を諦めないで』っていう立場じゃん?
その人があっさり夢を諦めてどうするの?
生徒たちに示しつかないでしょ、ってこと」
「岩崎さん、宝月くん……!
……ありがとう。
そうよね、私、大事なことを忘れていた気がするわ」
目にうっすら涙を滲ませる伊藤先生を見て、決意を新たにした。
なんだか私も、今は亡き母の顔に泥を塗らないくらいの医者になろうと強く思ったのだ。
すると、私のスマホが振動した気がした。
キョロキョロ辺りを見回して、携帯電話が使えるスペースを探して歩いた。
「廊下をまっすぐ行って、突き当たりを右に曲がった先にあるわよ?」
すれ違った看護師さんが教えてくれた。
さすがに、通話スペースの場所までは覚えていなかったから、助かった。
丁寧に頭を下げて、スマホを片手に携帯電話が使えるスペースに向かった。
看護師さんに、教えてもらった通りに進む。
電話のマークが見える。
『この場所以外で携帯電話は使用しないでください』の表示。
ここで間違いない。
着信は、深月ちゃんからだった。
『あ、理名ちゃん?』
かけ直すと、深月ちゃんの明るい声がした。
彼女の明るい声は、私の心を少しだけ明るく照らしてくれた。
「どうしたの?
何かあった?」
『んーん。
なかなか帰ってこないから、どうしたのかなって。
理名ちゃんのこと、待ちくたびれて寝ちゃいそうな人がいるから。
野川ちゃんと陽花ちゃん』
「なるほど、そういうことね」
電話を受けながら、時計を見ると、針は10時を示そうとしていた。
「深月ちゃん、あのね、椎菜ちゃん、気管支炎の疑いが強いんだ。
今、麗眞くんと養護の伊藤先生と、病院にいるの。
そっちの研修センターに戻れるか微妙なのよね。
戻れたとしても、消灯時間を完全に過ぎちゃうしから。
伊藤先生の部屋で過ごすことになりそうなんだ」
『そっかぁ、了解。
皆にも伝えておくね?』
「明日には回復してると思うけどね、椎菜ちゃん。
気管支炎ってそんな重篤な症状のものじゃないし」
『さすが。
医療従事者家系の血は争えないってね。
じゃあ、とりあえずおやすみなさい、理名ちゃん。
何かあったらSMS飛ばして?
まだしばらく、美冬ちゃんや華恋ちゃんたちと一緒に小一時間くらいは起きてるから』
その後、電話は切られた。
通話スペースから麗眞くんや伊藤先生がいるところに戻る。
彼らは、誰かと話しているようだ。
凛先生だ。
「全く。
あの子ったら。
自分がそうだからって先生にまで啖呵きったのね。
でも、そういうところ見てると、まるで鞠子さんを見てるようで。
ほっとけないのよ。
……あの人も、そうだった。
自分の信じた道をまっすぐ進む人だった。
何があっても後ろはめったに振り返らない、強い人だったわ」
聞こえてきたのは、凛さんのそんな言葉。
一筋、目から零れた涙をぐいと拭う。
泣いている姿は見せられない。
彼らが待つソファーに戻った。
「麗眞くん、伊藤先生?」
「あら、理名ちゃん。
ごめんね?
待ちくたびれちゃったかしら?」
凛先生がこの場にいる。
その事実は、椎菜ちゃんの処置は無事に終わったことを示していた。