「竹の春、竹の秋」
2.
小学校5年生の秋だった。運動会の練習をしていた。人は果たして自分が恋に落ちる瞬間を自覚したりするのだろうか。ともかく、薫はそれが初恋だったと分かる。
薫は勉強はそれほど得意な方ではなかったが、運動は得意だった。水泳も得意だったし、走るのも得意だった。走るのは得意でも水泳が苦手とか、水泳は得意だが走るのはそこそこ、とか、運動が得意なやからにも色々いるが、案外両方とも得意というのは少なかった気がする。小学生なんて勉強がどれほど出来るかなんていうのは大して問題ではない。薫は小学校の中学年頃からよくモテた。
ラブレターをもらったり、校舎のどこかに呼び出されたりして好きです、と言われることに抵抗はなかったけれど、言われた相手に特別な意識を向けたことがない。「そうか」と思うだけでいつも「うん」とか「ああ」とか「そう」とか曖昧に返事をしてばかりいた。「好きな人はいるのか?」と問われれば「いや、なんか、そういうのはない」とかなんとか答えていたのだけれど、小五の運動会があったその秋を境に薫は「好きな人がいる」と答えるようになったのだ。実際には、その頃にはまだ「好きだ」「これが恋だ」とはっきり自覚していたわけではなかった。ただ、他の友人達には抱かない想いは表現のしようもなくて、もしかすればこれが恋ではないか、と思っただけだった。
運動会の目玉であるチーム対抗リレーは一年生から六年生までクラス代表二人が選ばれて一年から二年、三年・・・とバトンをつないでいく。薫は四年生の時に初めてクラス代表になった。そしてその年、5年生でもクラス代表になった。薫は同じクラスの代表からバトンを受け取り、6年生の代表に繋ぐ。放課後の練習で、何度も何度もトラックの半周を走って「彼」にバトンを渡した。
週末に運動会を控えた練習だった。いつもどおりの練習で、バトンを受け取ってトラックの半周を全速力で走って行った。校庭の隅の方でドッヂボールをしていたグループのボールが、敷石とびのように並んだタイヤのひとつに跳ねて、大きくこちらに飛んできたことに気づかなかった。6年生の代表にバトンをわたす瞬間、みんなが大きく声を上げて代表の6年生が「スギ!危ないッ」と、薫の方へ数歩走った。
ボールは誰かにどこかに当たったのだろうか、よく覚えていない。薫と、六年生と、走り寄ってきた数人の練習のメンバーとドッヂボールをしていた児童。しりもちをついた腰の左側と、グラウンドについた手の砂利、おそらく6年生と頭突きしたらしいおでこが痛かった。
「・・・ったい」
おでこを撫でさすって、ふと見ると六年生のその児童は少し顔を歪めてそれから薫を見て「スギ、大丈夫?」と開口一番に言った。
「だいじょぶ」
と薫が答えると、彼は笑った。
そして、立ち上がろうとして、もう一度しりもちをついた。
保健室から足を引きずるようにして出て行く彼になんと言って声を掛けていいのか分からなかった。彼が運動会に出られないことは明らかだった。薫はあの時、自分のせいだ、と思ったのだろうか。今はもうよく覚えていない。ただ、一緒に居た自分、彼だけが怪我をしてしまったという事実、彼はきっと足が痛かったのに「大丈夫?」と薫を気遣って笑ったそのことが、幼かったけれども何か重大なことだと分かっていて薫の胸の中にぐるぐると渦巻いていた。
次の日、薫は朝早めに家を出た。彼の家はよく知らなかったけれど、何丁目の方だ、ということだけは分かったので彼が通るであろう通学路で彼を待った。しばらく待っていると彼はやって来た。昨日程ではないけれどもほんのちょびっと足を引きずるようにして歩いていた。ランドセルの肩ベルトを親指で押さえるようにしてほんの少しうつむいて歩いていた。薫がゆっくりと彼に近づいていくと、彼はふと顔を上げて、それから薫に気がつくとにっこりと笑った。それから少し足を速めるようにして歩くので、薫は急いで彼の方に走った。薫は「おはよう」と言うこともできなかった。彼の前でうつむいていると、彼がゆっくりと歩き出したので、薫も並んで歩いた。次の日も、その次の日もそうした。運動会の日が来て、チーム対抗リレーの選手が入場門に集まっているとき、真っ白な運動着を着た彼もまた入場門に来た。それから「みんな、頑張れ」と入場門から手を振っていた。
バトンを受け取った薫は、一目散に半周を走った。6年生の、彼の代わりに代表になった少年がバトンパスのスタートラインからゆっくりと動き出した。白い運動着、伸びた腕、幾重にも滲んで見えた。バトンを手渡した手ごたえを感じたとき、薫の目から涙がはらはらとこぼれた。「スギ、任せろ!」とバトンを受け取った6年生が言ったのが聞こえた。なぜ泣いているのか自分でも分からなかった。入場門を振り返った。彼は居なかった。
薫は勉強はそれほど得意な方ではなかったが、運動は得意だった。水泳も得意だったし、走るのも得意だった。走るのは得意でも水泳が苦手とか、水泳は得意だが走るのはそこそこ、とか、運動が得意なやからにも色々いるが、案外両方とも得意というのは少なかった気がする。小学生なんて勉強がどれほど出来るかなんていうのは大して問題ではない。薫は小学校の中学年頃からよくモテた。
ラブレターをもらったり、校舎のどこかに呼び出されたりして好きです、と言われることに抵抗はなかったけれど、言われた相手に特別な意識を向けたことがない。「そうか」と思うだけでいつも「うん」とか「ああ」とか「そう」とか曖昧に返事をしてばかりいた。「好きな人はいるのか?」と問われれば「いや、なんか、そういうのはない」とかなんとか答えていたのだけれど、小五の運動会があったその秋を境に薫は「好きな人がいる」と答えるようになったのだ。実際には、その頃にはまだ「好きだ」「これが恋だ」とはっきり自覚していたわけではなかった。ただ、他の友人達には抱かない想いは表現のしようもなくて、もしかすればこれが恋ではないか、と思っただけだった。
運動会の目玉であるチーム対抗リレーは一年生から六年生までクラス代表二人が選ばれて一年から二年、三年・・・とバトンをつないでいく。薫は四年生の時に初めてクラス代表になった。そしてその年、5年生でもクラス代表になった。薫は同じクラスの代表からバトンを受け取り、6年生の代表に繋ぐ。放課後の練習で、何度も何度もトラックの半周を走って「彼」にバトンを渡した。
週末に運動会を控えた練習だった。いつもどおりの練習で、バトンを受け取ってトラックの半周を全速力で走って行った。校庭の隅の方でドッヂボールをしていたグループのボールが、敷石とびのように並んだタイヤのひとつに跳ねて、大きくこちらに飛んできたことに気づかなかった。6年生の代表にバトンをわたす瞬間、みんなが大きく声を上げて代表の6年生が「スギ!危ないッ」と、薫の方へ数歩走った。
ボールは誰かにどこかに当たったのだろうか、よく覚えていない。薫と、六年生と、走り寄ってきた数人の練習のメンバーとドッヂボールをしていた児童。しりもちをついた腰の左側と、グラウンドについた手の砂利、おそらく6年生と頭突きしたらしいおでこが痛かった。
「・・・ったい」
おでこを撫でさすって、ふと見ると六年生のその児童は少し顔を歪めてそれから薫を見て「スギ、大丈夫?」と開口一番に言った。
「だいじょぶ」
と薫が答えると、彼は笑った。
そして、立ち上がろうとして、もう一度しりもちをついた。
保健室から足を引きずるようにして出て行く彼になんと言って声を掛けていいのか分からなかった。彼が運動会に出られないことは明らかだった。薫はあの時、自分のせいだ、と思ったのだろうか。今はもうよく覚えていない。ただ、一緒に居た自分、彼だけが怪我をしてしまったという事実、彼はきっと足が痛かったのに「大丈夫?」と薫を気遣って笑ったそのことが、幼かったけれども何か重大なことだと分かっていて薫の胸の中にぐるぐると渦巻いていた。
次の日、薫は朝早めに家を出た。彼の家はよく知らなかったけれど、何丁目の方だ、ということだけは分かったので彼が通るであろう通学路で彼を待った。しばらく待っていると彼はやって来た。昨日程ではないけれどもほんのちょびっと足を引きずるようにして歩いていた。ランドセルの肩ベルトを親指で押さえるようにしてほんの少しうつむいて歩いていた。薫がゆっくりと彼に近づいていくと、彼はふと顔を上げて、それから薫に気がつくとにっこりと笑った。それから少し足を速めるようにして歩くので、薫は急いで彼の方に走った。薫は「おはよう」と言うこともできなかった。彼の前でうつむいていると、彼がゆっくりと歩き出したので、薫も並んで歩いた。次の日も、その次の日もそうした。運動会の日が来て、チーム対抗リレーの選手が入場門に集まっているとき、真っ白な運動着を着た彼もまた入場門に来た。それから「みんな、頑張れ」と入場門から手を振っていた。
バトンを受け取った薫は、一目散に半周を走った。6年生の、彼の代わりに代表になった少年がバトンパスのスタートラインからゆっくりと動き出した。白い運動着、伸びた腕、幾重にも滲んで見えた。バトンを手渡した手ごたえを感じたとき、薫の目から涙がはらはらとこぼれた。「スギ、任せろ!」とバトンを受け取った6年生が言ったのが聞こえた。なぜ泣いているのか自分でも分からなかった。入場門を振り返った。彼は居なかった。