想い涙
予感
揺れる景色の中に、見慣れたビル街が現れた。
剥き出しのままの卒業アルバムを抱きしめる。
これが、最後の希望だった。
准の実家に立ち寄ったあと、自分の実家にも顔を出して卒業アルバムを持ち帰った。
実家でも、新幹線に乗っている間でも、電車に揺られている今でも、いくらでも見る時間はあったが、開く勇気がどうしても出せなかった。
そこに准がいなかったら、どうしたらいいのかわからなかった。
「すみません」
ふいに声をかけられて、隣に座る男へ振り向く。
「次の駅ってどこですか?うっかり寝てしまって」
それなら車内アナウンスを聞き逃したとしても、電光掲示板を見れば済む話だ。
電車に乗り慣れていないのか新手のナンパかと考えつつも、次の駅名を告げる。
「よかった、乗り過ごしてはいませんでした。ありがとうございます」
男は立ち上がってドアの近くに移動した。
その手には、白いステッキが握られている。
どうりで、と納得して、昨日のできごとを思い出す。
柚穂の衝撃が強すぎてすぐに思い当たらなかったが、男は愛里と一緒にいた人物だった。
「あの」
同じようにドアの近くに移動する。
「昨日、公園にいましたよね?」
「ああ、あのときの」
男はふわりとほほえんだ。
「今さらですけど、昨日のことはここだけの話にしてくれませんか。愛里ちゃんは隠さなくて良いって言ってくれるんですけど、ぼくみたいな男と仲が良いって、愛里ちゃんにとってプラスにはならないと思うんです」
「そんなことはないです。逆に、ファンの一人としては、こんな優しそうな人と付き合ってることに好感を持てました」
「お世辞が上手ですね。ありがとうございます」
笑みを深くした男につられて、頬がゆるむ。
人柄が顔ににじみ出ているような人だった。
「そういえば、あの公園にいたってことはご近所の方なんですか?」
「はい。わたしは公園前の坂を下ったあたりに住んでます」
「あそこですか。駅が近くていいですよね」
「そうなんですよ。駅前のお店で何でも揃いますし」
「ぼくらは住宅街の方に住んでいるので、駅まで来るのが大変で」
「そ、そうですよね」
ぼくら、という単語を聞き流すべきか悩んで曖昧な返事をすると、男ははっと口元を押さえた。
「言わないので、大丈夫ですよ」
男は小さくため息をついて、頭を下げた。
「ぼくって、いつもこうなんですよね。愛里ちゃんの足を引っ張っちゃうんです」
「きっと、そうゆう正直な人柄が、愛里……さんは好きなんじゃないかと思いますよ」
「そうですかねえ」
「そうですよ、きっと」
タイミングを見計らったようにドアが開いて、男に続いて降車する。
「これからそのまま帰ります?どこかに寄る予定はありますか?」
多少おぼつかない足取りでホームからの階段を下りる男の背に問いかける。
「そのまま帰ります」
「わたしも帰るので、途中まで一緒に帰りましょう」
「そうですね」
改札を抜けて同じ方向に曲がろうとした瞬間、肩に衝撃を感じる。
「すみません!」
軽く当たっただけだというのに、ぶつかった相手の体格が災いしてよろける。
がっしりとした肩は、何らかのスポーツ経験者であることを思わせた。
人の良さそうな目尻の下がった細い目と、すぐに謝罪をしてくれたという事実がなければ、下手に関わり合いになる前に逃げ出したくなる相手だ。
「いえ、こちらこそよそ見していてすみません」
「俺が悪いんです。人を捜していてよそ見をしていて」
ぶつかった男は小さくお辞儀をして、また辺りを見渡していた。
「どうかしましたか?」
「人とぶつかっただけです。行きましょうか」
男の手を引いて、人並みをかき分けながらロータリーに向かって進む。
さすがに駅前だからなのか、サングラスに帽子を被った愛里がバスを待つためのベンチに座っていた。
「瑞人!」
愛里はわたしの顔を見た瞬間、サングラス越しにもわかるぐらいに表情を険しくして、立ち上がった。
わたしを行き過ぎたファンだと思ったのか、走り寄ると同時に男の腕を掴み、足早に離れていく。
「愛里ちゃん!勘違いだよ、あの人はここまでぼくを送ってくれたんだ」
速度に着いていけず、男はよろけながら弁解をするが、愛里が止まる気配はない。
諦めたらしく、男は首だけ後ろへと回した。
「僕、瑞人って言います!また、機会があったらお会いしましょう」
手を振り返そうとしたが、それでは男にはわからないことに気づいて声を張る。
「はい、また!」
横道に入った二人はあっという間に姿が見えなくなり、濃い数分間の疲れを感じながら歩き出す。
山の向こうは茜色のグラデーションに染まっていた。
夕方には間に合ったと、息をつく。
間に合った?
何に間に合ったのか。
今朝と同様に何か用事でもあったかと考えるが、思い当たることはなかった。
駅を振り返ると、まだ誰かを捜している男が見えた。
目が合った途端、貧血のときのように地面が揺らぐ。
中学校の全校集会以来だと思いつつ、倒れる前にその場にしゃがむ。
心配されているのか視線を感じるが、しばらく何もできずに、蹲るしかなかった。
「大丈夫?」
スーパーの袋を提げたおばさんに背中をさすられながら、ゆっくりと体を起こす。
「大丈夫です。少しめまいがしただけなので」
数秒後、やっと頭の中がすっきりして立ち上がれば、違和感を覚えた。
ロータリーを走るバスや送迎の車の喧噪に紛れて、耳の奥で、小さく、杖がアスファルト打つ音が聞こえる。
背筋が冷たくなり、ずり落ちそうになっていたアルバムを抱え直す。
「ありがとうございました」
おばさんに頭を下げて、重い体を引きずるように歩き出す。
何かから逃げるように、自然と歩みは早くなっていた。
いつもよりずっと短い所用時間でアパートに着くと、部屋の前に立ち尽くしている影があった。
「ずっとここで待ってたの?」
晴れ上がった目、固く結ばれた唇。
きっと、同じ結果だったのだ。
柚穂の脇に手を入れて、立ち上がらせる。
「とりあえず中に入ろう」
部屋に入って電気を点ける。
シンクの中では、トーストを乗せていた皿が蛇口からこぼれ落ちる水滴を受け止めていた。
柚穂をベッドの上に座らせて、テレビを点けてからその隣に並んだ。
二人分の重みに耐えかねたように、安い造りのベッドが軋む。
「連絡くれればよかったのに、連絡先は教えたよね?」
静かに問いかければ、柚穂はスクールバックの中を漁りだした。
取り出したのは、真っ二つに割られた折りたたみ式携帯の片割れ。
「そっか」
震えだした柚穂に手を伸ばし、その頭を肩に抱き寄せる。
「……おかしくなったのは、わたしたちの方、なのかな?」
テーブルの上に投げ出した卒業アルバムに視線を預けたまま、首を振る。
きっとあそこに准の姿はないが、准は確かに存在していた。
「一人だけならまだしも、同じ状況に陥っている人が二人もいるんだから。そんな偶然、ないでしょ?」
「じゃあ、宇宙人に洗脳されたって言うんですか!?ここは映画の中ですか!?」
やけくそになったらしく、柚穂はテレビを流れる洋画のCMを見て投げやりに言い放った。
「そこまではいかないかもしれないけど」
あながち、否定できない。
「宇宙人じゃなくても、ほら、変なウィルスに感染したとか、記憶を操作されているとか……」
何を口にしても、柚穂は聞く耳持たなかった。
「やっぱり、わたしたちの方がおかしくなっちゃったんですよ」
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