想い涙
愛という感情とは
ドアの外にいたのは、二十代後半ぐらいの、スーツ姿の男だった。
がっしりとした体格で、男の体で外の景色の大半が隠されてしまっている。
てっきり柚穂だと思って出迎えたから、思わずチェーンを外す手を止めてしまった。
「この子の知り合いの方、ですよね?道に座り込んで動けなくなってたので、ここまで運んできたんですけど」
この子、と示された方には、ドアの影になっていて気づかなかったけれど、男の肩を借りて柚穂が立っていた。
「ありがとうございました」
男の肩に回されていた柚穂の腕を取ったものの、柚穂は完全に男に支えられて立っていたようで、のしかかった重みによろめいてしまう。
結局は男の手を借りて、玄関に座らせた。
「大丈夫だよ」
柚穂の虚ろな瞳を包むように、頬に手を当てる。
「俺はこれで」
男は、一度は背を向けたけれど、柚穂の怒鳴り声に驚いて振り返った。
「大丈夫なわけないじゃん!」
振り払われた手を握って、愛里に目配せする。
静観していただけだった愛里は、ようやく立ち上がって隣に並んだ。
「話があるの。聞きたい?」
今度こそ出て行こうとした男を、愛里は引き留めた。
「あなたにも聞いてるのよ」
勢いよく振り返った男の表情は、苦しげに歪んでいた。
「あなたは……息子さん、だったかしら」
「なんで知ってるんだ!」
男は拳を固く結ぶ。
「あなたは柚穂の様子を見て、自分と同じかもしれないと勘付いた。だから柚穂を運ぶふりをして、話を聞き出そうとした。違う?」
考えてみれば、いくら放っておけそうになかったからと言って、明らかに様子のおかしい女子高生を連れて歩くなんて、不審者に間違われることを恐れて普通ならできるわけがない。
第一、道で具合の悪そうな人を見つけたら、救急車か警察を呼ぶのが妥当な選択肢だ。
「この人も?」
「だから話があるって言ってるのよ」
愛里は柚穂の頭にそっと手を置いた。
「あなたも、ですか?」
頷いて、しばし互いの顔を見つめ合う。見覚えがある気がしたのは、わたしだけではないようだった。
「この前、駅にいた人……?」
男は手を打った。
「ブログに書き込んでいたのはあなたたちだったのか!」
「ブログ……?」
「ブログですよ、同じような状況になっている人は駅前に集合してほしいっていう」
男の言葉で、柚穂に頼んでブログに書いてもらった内容を思い出す。
「忘れてたっ」
自分から呼び出したくせに、約束をすっかり忘れていた。
柚穂と出会った翌日、夕方までに帰ってこなければならないと意識していた理由はこれだったのだ。
「忘れていたんじゃない、忘れさせたのよ」
愛里が頭を撫でた途端、柚穂が崩れ落ちる。
「柚穂!」
抱き起こすと静かな寝息が聞こえた。
「寝かせただけよ」
愛里は柚穂の左手を持ち上げて、手首を見せる。
加減せずに掴んでいたようで、指の形の跡が残っている。
開いた口が塞がらないといった様子の男に、愛里ははっきりと言い放った。
「わたし、人じゃないの」
愛里は先ほどしたように、男にも話はじめた。
その間に柚穂を引きずるようにしてベッドまで運び、なんとか寝かせる。
幸せそうな寝顔を見たら、その手を握らずにはいられなかった。
「終わりました?」
会話が聞こえなくなったのを見計らって玄関を覗き、呆然と立ち尽くす男を部屋の中に上がらせる。
居心地が悪くなってテレビを点けても、誰も喋り出そうとはしなかった。
「このまま何もしないでいた方が、あなたたちにとっては幸せなのかもしれない」
沈黙を破ったのは愛里だった。
「すべて忘れてしまえば、あなたたちは日常に戻れるわ」
このまま何もしないでいれば、准のことを考えて苦しまなくて済む。
精神的にも肉体的にも疲弊している今となっては、その言葉にほんの少し、魅力を感じてしまう。
力の抜けた手の中から、柚穂の手が滑り落ちる。
「ふざけるな!」
甘い囁きを蹴散らしたのは、男の声だった。
「そんなの、本当の幸せとは違うだろう!」
「きれい事ね!断言するわ、あなただって息子のことを忘れたら、別の子供をつくってその子と笑い合うのよ!なのにどうして幸せじゃないって言えるの!」
「その子だって俺の子だ、俺は幸せだろうな!でも、裕樹に代わりはいないんだ!お前は俺たちに協力してほしかったから話したんじゃないのか!」
「そうよ!だから半端な覚悟でいられたら困るのよ!」
愛里の言葉は男に向けられているようで、違っていた。
視線はずっと、わたしを射抜いたまま。
愛里が試しているのは、わたしの覚悟だった。
柚穂の手を持ち上げて、もう一度包み込む。
「わたしたちは、人なの」
愛里たちのように合理主義的に生きてはいられないし、ばかなことばかり繰り返す。
「だからわたしは、愛里に協力する。絶対、途中で逃げたりしない」
たとえ友達のような関係のままでもよかった。
なんで、気づけなかったのだろう。
准と一緒にいられれば、ただそれだけで十分だった。
甘い雰囲気なんてなくても、二人でたわいもない話をしたり、互いのいたずらに怒り合ったり、同じ空間で違う作業をしたり。
あの日々は、輝いていた。
「愛里の言う通り、忘れればまた、幸せになれるかもしれない。でも、それじゃだめ、代わりはいない、そう思うのが人なの」
そんな言い分が理由にならないことぐらい、わかっている。
理詰めで問われたら、言葉に詰まってしまうだろうが、それが感情というものだ。
「好きになるのに理由はいらない、ねえ」
ぽつりと愛里がこぼしたのは、よく耳にする言葉だった。
「あなたたちって、やっぱりよくわからないわ」
「わたしも、自分のことがよくわからない」
愛里はこの部屋に入って初めて、頬を緩めた。
「これが、愛おしいって感情なのかしら」
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