想い涙
別れ
ずっと、愛里は柚穂の寝顔を見つめていた。
その背を眺めていた時間はとても長く感じたが、実際には五分と経っていなかったらしい。
携帯の画面を確認して、愛里に声をかけようとした瞬間だった。
「見つけた」
「え?」
愛里はわたしの腕を掴み、驚く柚穂の母親をよそに、家を飛び出した。
「ちょっと、どうしたの!?」
柚穂の家は近所ではあったけれど、駅からだいぶ離れた住宅地にあった。
大学までは電車で通学しているし、この近辺は活動圏内から外れているから、見知らぬ街に来たようなものだった。
対して愛里は瑞人さんが言っていた通りこの近くに住んでいるようで、慣れたように通りを外れて小道に入って行く。
周りは家ばかりで、点在する小さな洋菓子店や隠れ家的な飲食店を除けば、ずっと同じような風景が続く。
走ること十分ほど経っただろうか。
いつもとは全く違う道のりで、見慣れた公園にたどり着いたようだった。
普段使使用している入口とは別の入口で、公園の名前が彫られた木の看板がなければ、気づくことができなかったかもしれない。
走る速度を緩めたと思えば、愛里はその場に立ち止まり、膝に手をつく。
柚穂の家からそれなりの距離を走って来たが、愛里の疲労は異常だった。
血の気の引いた、白い顔で荒い呼吸を繰り返す。
「大丈夫なの?」
「……だいぶ、力を使ったから」
「柚穂、に?」
「あれぐらいは平気よ、いつもやっていることだもの。別のことよ」
何に力を使ったのかと考えたら、その対象はわたししか考えられない。
掴まれたままだった手を急いで引き剥がす。
開放された手首は、赤く指の跡を残していた。
「あなたじゃない」
「じゃあ何に使ったの!」
愛里は大きく息を吸って、自分の手を強く握りしめた。
「捜していたのよ」
再び手首を掴まれて、振り払うこともできずに走り出す。
舗装された道を逸れて、愛里は木立の中に入っていく。
夕暮れ時の公園は子供たちや犬の散歩中の人たちで賑わっているのに、まるでそこだけを避けているかのような、静けさが漂っていた。
木立の中に入ってから、生ぬるい空気が全身にまとわりついて、奥に進むにつれて、動悸が速まっていく。
公園なのだから、陽差しを遮るほど木が茂っているわけでもないのに、まだ沈みきっていない夕陽が差しもせず、薄暗かった。
周囲の様子に気を取られて愛里が止まったことに気づくのが遅れ、背中に思い切り顔をぶつける。
「ごめん」
背後から前を覗けば、背の高い男が一人、離れた場所に立っていた。
離れた場所からもわかるほど目鼻立ちの整った男を、愛里は見たこともないほどに鋭い目つきで睨んでいる。
「ハクヤはおかしいって思わないの!」
ハクヤと呼ばれた男は、一歩ずつ、こちらに歩み寄る。
男は愛里の仲間のようだった。
「もちろん思うよ」
「だったらなんで、まだこんなことを続けていられるのよ!」
男はこちらへの歩みを止めず、ただそれだけなのに、得体の知れない恐怖を感じた。
愛里の態度も横柄だと思ってはいたけれど、この男は、根本的に何かが違う。
「勘違いしないでくれるかな。君がだよ」
頬を上気させた愛里を見て、男は口元を抑えて笑い出した。
「君はおかしいんだよ。たかが人間なんかに入れ込むなんて」
恐怖の理由がわかった気がした。
愛里の態度は、人をばかにするものだったけれど、この男の態度は、人の存在自体を否定している。
わたしは、男の視界の中では、地面に生える草のように気にも留められない存在なのだ。
「人は生きているのよ?」
「それが?」
「わたしたちがしていることは、人殺しと一緒よ!」
いっそう激しく笑い出して、男は腹を押さえた。
「正気か!君の言う通りこれを人殺しと言うなら、僕らは将来に多数の犠牲を出さないために、今少数を殺しているだけ。何がおかしい?僕らはお前が肩入れする人間のために人殺しをしているんだよ?」
男はふいに笑いを止めた。
「よかったよ。これ以上君がおかしくなる前に、あいつを消してもらって」
「あなたが瑞人を消したのね!」
食ってかかろうとする愛里を抑える。
「待って!」
この男が本来なら消えるはずではなかった瑞人さんを消した本人なら、愛里がどんな行動に走るかは目に見えている。
未だに内容はわからないが、冷静さを失っている今が、愛里の言う計画を決行するときだとはとても思えなかった。
どんなにこの男に屈辱的なことを言われても、准が戻る可能性を潰すわけにはいかない。
「そんなに、人が嫌いなの?」
急に口を挟んだわたしを一瞥して、男はわたしが愛里に回していた腕を引き剥がす。
「好き嫌いなんて人の感情だろう。どうとも思わない」
殴りかかろうとした愛里の腕を簡単に受け止めて、男は愛里の耳元へ口を寄せた。
「君が一切あいつとの関係を断つというのなら、上に掛け合ってあげてもいい。僕らは下等なあいつらとは……そこの女とも、違う。感情なんて愚かなものに振り回される必要はないんだ」
優しく諭すような甘い囁きは、ただの脅しでしかなかった。
愛里は元から自分を犠牲にして瑞人さんを助けるつもりだった。
そんなことを言われて、愛里が拒否できるはずがない。
「本当、に?」
「ああ」
感情をそぎ落とされたようにより蒼白になった愛里は、男に差し出されるまま、その手を取った。
「待ってよ愛里!わたしたちは、どうなるの!?」
愛里は押し黙ったまま、何も答えようとしない。
終わってしまう。
このままでは准と、もう二度と。
「愛里ちゃん」
ハクヤとは違う、優しく、心地よい男の声だった。
わたしが振り返るより早く、愛里はハクヤを押し退けて走り出していた。
「瑞人!」
抱きつこうと伸ばした腕は瑞人さんの体をすり抜け、勢い余って愛里は地面に倒れ込んだ。
「存在しないんだ、触れられるわけがないじゃないか。今さらそんなことから説明が必要なのか?」
ハクヤは冷たく吐き捨てた。
倒れた愛里に瑞人さんは手を差し出したけれど、触れることができないことを思い出して、すぐに引っ込めようとした。
愛里はそれを止めて、触れるふりをして体を起こす。
「今、助けるから!」
瑞人さんは首を振った。
「僕は戻れない。最後に愛里ちゃんの姿を見れてよかった」
「戻れないことなんてないわ!わたしが助けるから、絶対!」
愛里がしたように、瑞人さんは手を伸ばして、愛里の瞳から零れだした涙を拭うふりをした。
「愛里ちゃんの目は、愛里ちゃんの心と同じなんだね。とっても、澄んでる」
最後にこんなきれいなものを見ることができてよかったと、瑞人さんはほほえんだ。
「……そんなこと、言わないで」
愛里の声は震えていた。
「ごめん。クサかったね」
「最後じゃ、ない」
拭えなかった涙が、地面を濡らす。
「愛里、最後だよ」
ハクヤは瑞人さんに向かって指を向けた。
二人のじゃまをしなかったのは、きっと、最初から瑞人さんを助けるつもりなんてなかったからだろう。
止めるにも、為す術なんてなかった。
「ばいばい」
次の瞬間、瑞人さんの姿は消えていた。
「最初から、こうするつもりだったのね」
やっとのことで絞り出された声だった。
「僕に上と掛け合えるような権力があるとでも?あいつをここまで連れてきてあげただけでもありがたく思ってもらいたいな。最後のお別れぐらいはできただろう?」
「……許さない!」
「あいつはこの話を持ちかけたとき、喜んでいたよ。どうせ消されるのなら、最後に君の姿を見ることができて幸せだって」
「それはどちらにしたって消されるからでしょう!わたしは……わたしは!」
瑞人を助けたかった。
小さく掠れた呟きを聞いて、ハクヤは再び腹を抱えて笑い出した。
「本当に救いようのない。同期として今まで君のことを庇っていてあげたけれど、もうむりだ」
ハクヤは一切の感情をそぎ落としたような表情に戻った。
「上に報告させてもらうよ」
拳を握りしめて、愛里に近寄るハクヤの前に立ちはだかる。
「わたしたちは、あなたたちのおもちゃじゃない!」
「うまいことを言うな。確かにお前たちは創造主様を楽しませるためのおもちゃだ」
冷たく、低くなった声音に思わず後退りそうになる足を、その場に踏み留める。
「あなたたちに操られることでしか生きていられないのなら、死んだ方がいい!こんな世界、なくなればいい!」
叫んだ瞬間、ぐらりと体が傾くのが感じた。
愛里がわたしの名前を必死に呼ぶ声が聞こえたのを最後に、意識は薄れていった。
その背を眺めていた時間はとても長く感じたが、実際には五分と経っていなかったらしい。
携帯の画面を確認して、愛里に声をかけようとした瞬間だった。
「見つけた」
「え?」
愛里はわたしの腕を掴み、驚く柚穂の母親をよそに、家を飛び出した。
「ちょっと、どうしたの!?」
柚穂の家は近所ではあったけれど、駅からだいぶ離れた住宅地にあった。
大学までは電車で通学しているし、この近辺は活動圏内から外れているから、見知らぬ街に来たようなものだった。
対して愛里は瑞人さんが言っていた通りこの近くに住んでいるようで、慣れたように通りを外れて小道に入って行く。
周りは家ばかりで、点在する小さな洋菓子店や隠れ家的な飲食店を除けば、ずっと同じような風景が続く。
走ること十分ほど経っただろうか。
いつもとは全く違う道のりで、見慣れた公園にたどり着いたようだった。
普段使使用している入口とは別の入口で、公園の名前が彫られた木の看板がなければ、気づくことができなかったかもしれない。
走る速度を緩めたと思えば、愛里はその場に立ち止まり、膝に手をつく。
柚穂の家からそれなりの距離を走って来たが、愛里の疲労は異常だった。
血の気の引いた、白い顔で荒い呼吸を繰り返す。
「大丈夫なの?」
「……だいぶ、力を使ったから」
「柚穂、に?」
「あれぐらいは平気よ、いつもやっていることだもの。別のことよ」
何に力を使ったのかと考えたら、その対象はわたししか考えられない。
掴まれたままだった手を急いで引き剥がす。
開放された手首は、赤く指の跡を残していた。
「あなたじゃない」
「じゃあ何に使ったの!」
愛里は大きく息を吸って、自分の手を強く握りしめた。
「捜していたのよ」
再び手首を掴まれて、振り払うこともできずに走り出す。
舗装された道を逸れて、愛里は木立の中に入っていく。
夕暮れ時の公園は子供たちや犬の散歩中の人たちで賑わっているのに、まるでそこだけを避けているかのような、静けさが漂っていた。
木立の中に入ってから、生ぬるい空気が全身にまとわりついて、奥に進むにつれて、動悸が速まっていく。
公園なのだから、陽差しを遮るほど木が茂っているわけでもないのに、まだ沈みきっていない夕陽が差しもせず、薄暗かった。
周囲の様子に気を取られて愛里が止まったことに気づくのが遅れ、背中に思い切り顔をぶつける。
「ごめん」
背後から前を覗けば、背の高い男が一人、離れた場所に立っていた。
離れた場所からもわかるほど目鼻立ちの整った男を、愛里は見たこともないほどに鋭い目つきで睨んでいる。
「ハクヤはおかしいって思わないの!」
ハクヤと呼ばれた男は、一歩ずつ、こちらに歩み寄る。
男は愛里の仲間のようだった。
「もちろん思うよ」
「だったらなんで、まだこんなことを続けていられるのよ!」
男はこちらへの歩みを止めず、ただそれだけなのに、得体の知れない恐怖を感じた。
愛里の態度も横柄だと思ってはいたけれど、この男は、根本的に何かが違う。
「勘違いしないでくれるかな。君がだよ」
頬を上気させた愛里を見て、男は口元を抑えて笑い出した。
「君はおかしいんだよ。たかが人間なんかに入れ込むなんて」
恐怖の理由がわかった気がした。
愛里の態度は、人をばかにするものだったけれど、この男の態度は、人の存在自体を否定している。
わたしは、男の視界の中では、地面に生える草のように気にも留められない存在なのだ。
「人は生きているのよ?」
「それが?」
「わたしたちがしていることは、人殺しと一緒よ!」
いっそう激しく笑い出して、男は腹を押さえた。
「正気か!君の言う通りこれを人殺しと言うなら、僕らは将来に多数の犠牲を出さないために、今少数を殺しているだけ。何がおかしい?僕らはお前が肩入れする人間のために人殺しをしているんだよ?」
男はふいに笑いを止めた。
「よかったよ。これ以上君がおかしくなる前に、あいつを消してもらって」
「あなたが瑞人を消したのね!」
食ってかかろうとする愛里を抑える。
「待って!」
この男が本来なら消えるはずではなかった瑞人さんを消した本人なら、愛里がどんな行動に走るかは目に見えている。
未だに内容はわからないが、冷静さを失っている今が、愛里の言う計画を決行するときだとはとても思えなかった。
どんなにこの男に屈辱的なことを言われても、准が戻る可能性を潰すわけにはいかない。
「そんなに、人が嫌いなの?」
急に口を挟んだわたしを一瞥して、男はわたしが愛里に回していた腕を引き剥がす。
「好き嫌いなんて人の感情だろう。どうとも思わない」
殴りかかろうとした愛里の腕を簡単に受け止めて、男は愛里の耳元へ口を寄せた。
「君が一切あいつとの関係を断つというのなら、上に掛け合ってあげてもいい。僕らは下等なあいつらとは……そこの女とも、違う。感情なんて愚かなものに振り回される必要はないんだ」
優しく諭すような甘い囁きは、ただの脅しでしかなかった。
愛里は元から自分を犠牲にして瑞人さんを助けるつもりだった。
そんなことを言われて、愛里が拒否できるはずがない。
「本当、に?」
「ああ」
感情をそぎ落とされたようにより蒼白になった愛里は、男に差し出されるまま、その手を取った。
「待ってよ愛里!わたしたちは、どうなるの!?」
愛里は押し黙ったまま、何も答えようとしない。
終わってしまう。
このままでは准と、もう二度と。
「愛里ちゃん」
ハクヤとは違う、優しく、心地よい男の声だった。
わたしが振り返るより早く、愛里はハクヤを押し退けて走り出していた。
「瑞人!」
抱きつこうと伸ばした腕は瑞人さんの体をすり抜け、勢い余って愛里は地面に倒れ込んだ。
「存在しないんだ、触れられるわけがないじゃないか。今さらそんなことから説明が必要なのか?」
ハクヤは冷たく吐き捨てた。
倒れた愛里に瑞人さんは手を差し出したけれど、触れることができないことを思い出して、すぐに引っ込めようとした。
愛里はそれを止めて、触れるふりをして体を起こす。
「今、助けるから!」
瑞人さんは首を振った。
「僕は戻れない。最後に愛里ちゃんの姿を見れてよかった」
「戻れないことなんてないわ!わたしが助けるから、絶対!」
愛里がしたように、瑞人さんは手を伸ばして、愛里の瞳から零れだした涙を拭うふりをした。
「愛里ちゃんの目は、愛里ちゃんの心と同じなんだね。とっても、澄んでる」
最後にこんなきれいなものを見ることができてよかったと、瑞人さんはほほえんだ。
「……そんなこと、言わないで」
愛里の声は震えていた。
「ごめん。クサかったね」
「最後じゃ、ない」
拭えなかった涙が、地面を濡らす。
「愛里、最後だよ」
ハクヤは瑞人さんに向かって指を向けた。
二人のじゃまをしなかったのは、きっと、最初から瑞人さんを助けるつもりなんてなかったからだろう。
止めるにも、為す術なんてなかった。
「ばいばい」
次の瞬間、瑞人さんの姿は消えていた。
「最初から、こうするつもりだったのね」
やっとのことで絞り出された声だった。
「僕に上と掛け合えるような権力があるとでも?あいつをここまで連れてきてあげただけでもありがたく思ってもらいたいな。最後のお別れぐらいはできただろう?」
「……許さない!」
「あいつはこの話を持ちかけたとき、喜んでいたよ。どうせ消されるのなら、最後に君の姿を見ることができて幸せだって」
「それはどちらにしたって消されるからでしょう!わたしは……わたしは!」
瑞人を助けたかった。
小さく掠れた呟きを聞いて、ハクヤは再び腹を抱えて笑い出した。
「本当に救いようのない。同期として今まで君のことを庇っていてあげたけれど、もうむりだ」
ハクヤは一切の感情をそぎ落としたような表情に戻った。
「上に報告させてもらうよ」
拳を握りしめて、愛里に近寄るハクヤの前に立ちはだかる。
「わたしたちは、あなたたちのおもちゃじゃない!」
「うまいことを言うな。確かにお前たちは創造主様を楽しませるためのおもちゃだ」
冷たく、低くなった声音に思わず後退りそうになる足を、その場に踏み留める。
「あなたたちに操られることでしか生きていられないのなら、死んだ方がいい!こんな世界、なくなればいい!」
叫んだ瞬間、ぐらりと体が傾くのが感じた。
愛里がわたしの名前を必死に呼ぶ声が聞こえたのを最後に、意識は薄れていった。