想い涙
幸せな世界とは
一人の少女が事故による植物状態に陥ったことから、すべては始まった。
少女が生まれ育った環境は複雑だった。
家族からは疎まれ、友人もいなかった。
彼女が愛するのも、彼女を愛するのも、心優しい恋人、ただ一人だけ。
「わたしに初めて与えられた任務は、その恋人を消すことだった」
男は悔やむように、一度唇を噛み締めた。
「わたしは能力に長けていたけれど、生まれつき、人に近い感情を持ち合わせてしまっていた。だから自分の行動がどんな結果を生むかなんて深く考えずに、二人にせめて別れの言葉だけでも交わさせてあげたいと願ってしまったんだ」
少女が意識を取り戻すまでに消さなければならなかった恋人を、少しだけ長く生かした。
結果、少女にとっても、その恋人にとっても、別れは最悪のものとなった。
意識を取り戻した少女に、恋人は、このまま死ねばよかったのにと言い放った。
最愛の彼女を失ったと思っていた恋人は、ある犯罪にすでに手を染めており、今さら引き返すことはできなかった。
少女の恋人が消される対象になったのも、その犯罪が原因だった。
ほどなくして少女は、自殺を図る。
自殺を図った少女を男は止めることができず、事態は現在に至るまで世界を揺るがす、大騒動に発展した。
「わたしは消えてなくなってしまいたかったが、当時の上層部はわたしの力を惜しんで何も処罰しなかった。それからずっと、わたしは自分の行いを償うために、この世界を守るために、世界の修正を続けている。もっと早くに、君たちの望みを絶ってあげればよかったんだろうね。でも、どうしても自分とかぶって、止められなかったんだ」
代わる代わる男は、わたしと愛里に射貫くような視線を向ける。
「もう、消された人間に会いたいなんて言わないでくれよ。一部の者たちの自分よがりな願いが、今度はどんな不幸を招くと思う?」
「……その女の子は、恋人の記憶を消されて孤独に生きたとして、幸せだったと思いますか。もしかしたら、幸せを知ることなく女の子は生涯を終えたかもしれません。たとえ不幸な最後だったとしても、恋人との幸せな記憶を持ったまま死ぬことができた方が、女の子にとっては幸せだったとは思いませんか。あくまで、可能性の話ですけど」
「何が言いたい?」
「人は幸せなだけでは生きていけないと、ある人に言われました」
室野さんの言葉を思い返す。
「つらい、苦しい思いをするからこそ、感じる幸せもあります。あなたたちはわたしたちの世界から不幸を取り除いているつもりかもしれませんが、幸せも一緒に消しているんです。ただ生かされる世界に、何の意味がありますか。修正されないことでいつか世界が消えるとしたら、それは仕方のないことだと、わたしは思います」
男は何も言わないまま、わたしの頭に手を置いた。
「カイリ様!?」
愛里が制止しようとして押さえられたのを最後に、目の前の映像が切り替わる。
懐かしい、准の部屋だった。
自分が消されることを話す准と、最初こそ笑い飛ばしていたものの、嘘ではないことを知って涙が止まらなくなったわたし。
ほどなくして、愛里が現れる。
准は消され、わたしの記憶も愛里によって書き換えられた。
映像が途切れて我に返ると同時に、バックの中を漁る。
内ポケットの中を探って、目的のそれをようやく取り出した。
「きみの話を聞いて、僕も救われた気がした。記憶を見せてあげるだけで精一杯だけど、わずかばかりのお礼だよ」
何も書かれていない、准のいたずらだと思っていたメモ用紙。
なんとなく捨てられずにとっておいたそれには、准からの最後の言葉が残されていた。
「愛里が消さないでいてくれたんだね」
「でも、内容は残してあげられなかったわ」
「いいの。覚えてるから」
そこに書かれていたのは、准らしい、単純な言葉だった。
ありがとう。
准なりの、精一杯の愛情表現だった。
「きみの意見は正しいのかもしれないが、過去の経験もあるし、今すぐにどうこうすることはできない。今はきみの記憶は消させてもらう。ただ、いつか、誰かの大切な人を消さなくて済むように、これからのことをじっくりと考えていくことにするよ」
メモ用紙に残された涙の跡を、ゆっくりと撫で上げる。
「愛里、よろしくね」
愛里の手のひらにメモ用紙を乗せる。
本当は、世界なんてどうでもよかった。
もう一度、会いたかったのに。
「准……」
少女が生まれ育った環境は複雑だった。
家族からは疎まれ、友人もいなかった。
彼女が愛するのも、彼女を愛するのも、心優しい恋人、ただ一人だけ。
「わたしに初めて与えられた任務は、その恋人を消すことだった」
男は悔やむように、一度唇を噛み締めた。
「わたしは能力に長けていたけれど、生まれつき、人に近い感情を持ち合わせてしまっていた。だから自分の行動がどんな結果を生むかなんて深く考えずに、二人にせめて別れの言葉だけでも交わさせてあげたいと願ってしまったんだ」
少女が意識を取り戻すまでに消さなければならなかった恋人を、少しだけ長く生かした。
結果、少女にとっても、その恋人にとっても、別れは最悪のものとなった。
意識を取り戻した少女に、恋人は、このまま死ねばよかったのにと言い放った。
最愛の彼女を失ったと思っていた恋人は、ある犯罪にすでに手を染めており、今さら引き返すことはできなかった。
少女の恋人が消される対象になったのも、その犯罪が原因だった。
ほどなくして少女は、自殺を図る。
自殺を図った少女を男は止めることができず、事態は現在に至るまで世界を揺るがす、大騒動に発展した。
「わたしは消えてなくなってしまいたかったが、当時の上層部はわたしの力を惜しんで何も処罰しなかった。それからずっと、わたしは自分の行いを償うために、この世界を守るために、世界の修正を続けている。もっと早くに、君たちの望みを絶ってあげればよかったんだろうね。でも、どうしても自分とかぶって、止められなかったんだ」
代わる代わる男は、わたしと愛里に射貫くような視線を向ける。
「もう、消された人間に会いたいなんて言わないでくれよ。一部の者たちの自分よがりな願いが、今度はどんな不幸を招くと思う?」
「……その女の子は、恋人の記憶を消されて孤独に生きたとして、幸せだったと思いますか。もしかしたら、幸せを知ることなく女の子は生涯を終えたかもしれません。たとえ不幸な最後だったとしても、恋人との幸せな記憶を持ったまま死ぬことができた方が、女の子にとっては幸せだったとは思いませんか。あくまで、可能性の話ですけど」
「何が言いたい?」
「人は幸せなだけでは生きていけないと、ある人に言われました」
室野さんの言葉を思い返す。
「つらい、苦しい思いをするからこそ、感じる幸せもあります。あなたたちはわたしたちの世界から不幸を取り除いているつもりかもしれませんが、幸せも一緒に消しているんです。ただ生かされる世界に、何の意味がありますか。修正されないことでいつか世界が消えるとしたら、それは仕方のないことだと、わたしは思います」
男は何も言わないまま、わたしの頭に手を置いた。
「カイリ様!?」
愛里が制止しようとして押さえられたのを最後に、目の前の映像が切り替わる。
懐かしい、准の部屋だった。
自分が消されることを話す准と、最初こそ笑い飛ばしていたものの、嘘ではないことを知って涙が止まらなくなったわたし。
ほどなくして、愛里が現れる。
准は消され、わたしの記憶も愛里によって書き換えられた。
映像が途切れて我に返ると同時に、バックの中を漁る。
内ポケットの中を探って、目的のそれをようやく取り出した。
「きみの話を聞いて、僕も救われた気がした。記憶を見せてあげるだけで精一杯だけど、わずかばかりのお礼だよ」
何も書かれていない、准のいたずらだと思っていたメモ用紙。
なんとなく捨てられずにとっておいたそれには、准からの最後の言葉が残されていた。
「愛里が消さないでいてくれたんだね」
「でも、内容は残してあげられなかったわ」
「いいの。覚えてるから」
そこに書かれていたのは、准らしい、単純な言葉だった。
ありがとう。
准なりの、精一杯の愛情表現だった。
「きみの意見は正しいのかもしれないが、過去の経験もあるし、今すぐにどうこうすることはできない。今はきみの記憶は消させてもらう。ただ、いつか、誰かの大切な人を消さなくて済むように、これからのことをじっくりと考えていくことにするよ」
メモ用紙に残された涙の跡を、ゆっくりと撫で上げる。
「愛里、よろしくね」
愛里の手のひらにメモ用紙を乗せる。
本当は、世界なんてどうでもよかった。
もう一度、会いたかったのに。
「准……」