インセカンズ
「ヤスさん、ここのところお疲れでしょうから、しなくていいですよ。終電前には帰るので、少しお話でもしてましょう」

最後にもう一度だけ抱かれて終わりにしようと思って出てきたが、こうして寄り添っていられるのなら、それだけでも十分構わない。

「改めてそう言われると、何話していいか困るな」

「いつも通りでいいですよ。おっさん全開で下ネタでも、何でも」

「いや。今はいい。何も話さなくてここままっていうのは?」

「もちろん、それでもいいですよ」

そのまま、テレビの音量だけが流れる室内に身を置いていると、隣り座る安信の首ががくんと落ちたのが目の端に映る。

「……ごめん、アズ。なんか眠いわ。帰りは俺が送っていくから、ちょっと休ませて」

「じゃあ、ちゃんとベッドに、」

「いや、アズの膝かして」

「いいですけど、デニムだからゴワゴワしないですか?」

「じゃあ脱ぐか? って嘘。これで十分」

安信はずるずると体を横に倒すと、緋衣の太腿を枕代わりにして目を閉じる。

数秒後には規則正しい寝息が聞こえてきて、緋衣はそっと彼の髪に触れる。安信の髪はまだ少し濡れていた。緋衣は体の位置はそのままに手だけを足元に伸ばすと、出掛けに羽織っていたタータンチェックのカシミヤのストールを彼に掛けてやる。

こうしていると、まるで恋人同士のようだった。これで最後だと思うと、身体を重ねて終わりにするよりも余計辛く思えてきて、鼻の奥がつんとして目頭が熱くなる。

緋衣は涙がこぼれないように上を向くと、安信が言っていた円周率を脳裏に浮かべてみる。そういえば、緋衣も小数点以下19ケタまで覚えたことがあったと思い出した。

声には出さずに、心の中で数字の羅列を唱えていく。一度覚えたことはなかなか忘れないものだと、しみじみ思ってしまう。

「……何やってるんだろうね。ヤスさんも私も」

一度でも知ってしまったのに。この人が欲しいと切実に願っているのに。この温もりを、無防備な寝顔も、忘れなくてはならないなんて……。

ホント、いい大人がすることじゃない。
緋衣はぽつりとそう続けると、もう一度、彼の髪を優しく撫でた。



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