インセカンズ
「5時までここ借りてるから、落ち着くまでいればいい」

「大丈夫です。もう戻りますから」

緋衣はそう言って立ち上がったが、まだ足元が覚束ずよろめいてしまう。安信は、デスクに片手を突いて体勢を維持しようとする緋衣に歩み寄ると、彼女の両肩に手を置いて座るように促す。

「そんな顔で戻れるわけないだろ」

「そんな顔って、」

緋衣は最後まで言えなかった。いきなり唇を塞がれて、頭が真っ白になる。それがキスだと気付いたときには、縋るように安信の腕を掴んでいた。

「そういう顔だよ」

安信は唇を離すと、口元に勝ち誇ったような笑みを浮かべて緋衣を覗き込む。

「時間まで俺とここにいろ」

そして、傲慢な態度で言うと席に戻っていく。

緋衣は、放心状態のまま、そこにあった椅子にすとんと腰かける。悔しい。キスひとつで黙らされてしまう自分も、婚約間近だと知っていながら弄んでくる安信も許せない。そんなはずはないのに、安信に好意を抱かれているのかもしれないと都合の良い錯覚を起こしてしまいそうになる能天気な自分が何よりも恨めしかった。

不思議と、虚しさというものはなかった。きっと、安信になら何をされても嫌ではないのだ。彼にとって疑似恋愛の延長としての悋気だとしても、まるで‘俺の女’扱いで尊大な態度を取られても、あの魅力的な唇で微笑まれたら許してしまう。


――あの子は幸せだったのかもしれない。


緋衣はふと学生時代の友人のことを思い出す。何年も辛い恋に身を置きながら、健気に笑っていた彼女のことを。

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