インセカンズ
緋衣は、隣りに座る亮祐を一瞥する。口を閉ざしたまま、物言いたそうな顔付きで一ノ瀬を睨んでいた。彼は今、飼い犬に噛まれた気分でいるのだろう。物分かりの良い都合のいい女だと思ってきたからこそ、彼女が緋衣に携帯を渡そうとした時に慌てる素振りすら見せなかったし、こうして婚約者と浮気相手が同席する事も強く否定しなかった。切り札が一ノ瀬の手中にあるなど、ましてや、亮祐に対して牙を剥くことなど端から考えてなかったのだろう。

それに比べて、一ノ瀬は潔い。こんなことを仕出かしてしまえば、亮祐から嫌われて今後一切関係を断たれて当然という状況を自ら作ったのだ。彼女は3ヵ月前、もうすぐ亮祐は自分のものになるのだと声高に言い放った。恐らく、亮祐が甘い言葉を囁いたのだろう。彼女はその言葉を信じたのだ。それが、緋衣と婚約したと知って、どんなに悔しかっただろう。綺麗に施されている大人びたメイクは、この春社会人二年目となる、まだあどけなさが残る彼女には似つかわしくない。緋衣に対する対抗心からか無理をしている感が否めず、同情するつもりはないが痛々しくさえ思えてしまう。

「一ノ瀬さん、そろそろ時間じゃないの? 何度か着信あったんじゃない?」

「緋衣さん、さっきから気付いてました? 音小さくしてたんですけど、聞こえてましたよね? なんか、タイミング逃してしまって」

「そうよね。早くお友達のところに行ってあげて。ここのお勘定は気にしなくていいから」

「ごめんなさい。それじゃあ、失礼しますね。亮祐さんは、また月曜日に」

一ノ瀬はにっこり笑うと軽くお辞儀をして席を立つ。緋衣はその後ろ姿を少しだけ見送ってから、亮祐に向き直る。

「どうする? 予定通り上の階でお昼にする? それとも、せっかくだけど今日はこれで帰る?」

緋衣からの問いかけに、亮祐はゆっくりと視線を合わせてくる。

「……俺に言い訳ひとつさせてくれないのか?」

彼がどうして疑念を抱いた眼差しを寄せてくるのか、緋衣には分からなかった。ここで騒ぎ立てるのは得策ではない。それは亮祐だって同じ考えのはずだ。これが大人の対応というものではないのか。

「……こういう卒のないところが嫌だったの? もっと感情を露わにぶつけてきてほしかった? ねぇ。ここでする話じゃないでしょう」

緋衣は、言い聞かせるようにじっと彼を見つめる。

「……それもそうだな。悪かった」

亮祐がそう言って注文票を手に取り立ち上がったのを見て、緋衣も席を立った。

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