インセカンズ
思い返してみれば、緋衣は亮祐のことをほとんど知らなかった。

合コンで出会ったとはいえ、ピンチヒッターだった彼のことを直接知っている人間は、メンバーの中に誰一人いなかった。亮祐と一緒にいると目まぐるしく変化する景色がいつも緋衣の心を躍らせて、運命めいた出会い方をまえにしてただ盲目でいただけなのかもしれない。彼を取り巻く世界を知らずにいようとも、緋衣にとっては目の前にいる亮祐が真実で、信じていた。

一ノ瀬のことがなかったら、亮祐を裏切ることもなかった。待ち望んだ結婚が色褪せてしまう事もなかった。何より、他の誰かに心惹かれることもなかった。亮祐がもっと上手にしてくれていたら、何も知らないまま幸せな結婚をしていたのかもしれない。そう思ってみたところで、今となってはたらればの話でしかない。

もう緋衣のなかでは答えは出ている。亮祐も聞かずとも分かっているだろう。

その日の夜、緋衣は彼に別れを告げた。



**
「アズ、今月すごいじゃん」

ミチルは言うと、労うように緋衣の肩をぽんと叩く。

月末になり、張り出された営業成績を前にして、緋衣は腕組みをしている。

「……あれ?」

うんともすんとも言わない緋衣に、ミチルが顔を覗き込むと、首を振る。

「ううん。こんなに棒グラフ伸びたの久々だから嬉しいのには変わりないんだけど。なんていうか、今月色々あった割にはしっかり仕事してたんだな~って、感慨に浸ってた」

「色々ってプライベート? 全然そんなふうに見えなかったけど」

「テンパりすぎて、逆に優等生キャラが発動してたのかな」

「なにそれ」

「ん? ヤスさん曰く、私って、こちこちの優等生らしいから」

「そうかな? アズって私が知る限りだと、結構、喜怒哀楽出てるよ。まぁ、確かに、人より分かりにくいかもしれないけど。特に、怒と哀が。だからじゃない? そう言われるの」

確かに、人前ではそういった感情は出さないようにしている。周りに心配を掛けるのは好きではないし、自分の弱い部分を曝け出す勇気は持ち合わせていない。けれども、安信の前ではとっくにそういうところを見られてしまっている。心を許してしまっている。

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