無垢な瞳

「ただいま」

鍵を開けて入るときもついそう言ってしまう。

「おかえり」と迎えてくれる人がいないであろうことはわかっていた。

それなのにがっかりしている自分に腹が立つ。



父が出て行ってから、僕たちは2DKのこのアパートに移った。

父から慰謝料はもらっていたが、とても生活をまかなえるほどの額ではない。

やむをえない選択だった。

こんな安アパートじゃ隣近所に迷惑だろうからと、僕のピアノは売られてしまった。

本当はわずかばかりの現金を得るためにやむをえなかったことを僕は知っている。

そしてかわりに買ってもらった中古の小さなキーボードが僕の今の音楽世界だ。





母は相変わらず体調がよくない。

精神的にも不安定で、僕の前でも平気でよく泣いた。

母に泣かれると、ぼくはどうしようもなくつらくなるが、「大丈夫だよ」と無責任にはげますことくらいしかできなかった。

そして、母の薬の量が増えていったことを、このときの僕はまだ知らなかった。
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