水平線の彼方に( 上 )
病院からノハラの家に戻り、まずは自宅のドアチャイムを鳴らした。
頼まれたからと言って、勝手に水道栓を開けるのは、やはり良くないと思ったから。
さっきと同じく、おばあちゃんが出て来てくれるものと思い込み、気楽に構えていたら、なんとお母さんが顔を出した。

「あら…」

特別驚いた様子もなく瞬きされた。
おばあちゃんよりも、雰囲気がノハラに似ている。

「もしかして…岩月さん…じゃない⁈ 」

会ったのは中学以来。よく分かったなと、こっちの方が驚いた。

「…そうです…」

久しぶりの対面に、緊張しているのは私だけ。
お母さんの方はむしろ、再会を喜んでいた。

「久しぶりねぇ…。昔は真悟がお世話になって…あっ、もしかしたら今も?…」

フフフ…と、意味深な笑い。
お母さんまで私達の関係を勘違いしているらしい。

「真悟なら今、入院中で…」
「…その…石坂君から頼まれて、温室の水遣りに来たんです…」

再度同じ説明をしてくれようとするお母さんの言葉を止めた。一刻も早く、植物に水を上げたかった…。

「水道の元栓、開けてもいいですか?」

お母さんはぽっかりと口を開けてこっちを見ていた。パチパチと瞬きを繰り返し、私に聞き返した。

「真悟が…貴女に温室の世話を…?」

信じられないような言い方に、はい…と答える。
感心するような顔になり、へぇ…と声が返ってきた。

「あの真悟が人を頼るなんて…」

まだ信じられないらしい。
親子の間で何があるのか知らないけど、極めて珍しい事のようだ。

お母さんは、一緒に温室まで行ってくれた。
水道の元栓の場所を教え、中の状況を見てひどくショックを受けていた。

「…こんなになるまで何も言わないで…」

呆れたように呟きながらも扇風機を除け、水道線に沿って鉢を動かす。
手慣れたその動きに、何の仕事をされているのか…と疑問に思った。

「これで一旦逃げましょう。ここにいたらずぶ濡れになるから」

背中を押され、表へ出た。水道栓を開け水が出始めると、温室内には蒸気が立ち込め、一瞬煙った。
一気に冷やされた熱気は、次第に水滴になり、温室の壁を這う。
その様子を目で追っていたお母さんは、中の状態が分かるかのように水を止めた。

「もうこのくらいで一旦やめましょう。次は風を通さないと、植物が蒸れて腐るわ」

何もかも知り尽くしているかのように中に入ると、温室の足元のビニールをめくり始めた。
隙間から、涼しい風が入り込んでくる。
扇風機は温室の天井に向かって流し、空気が温室全体を回るように首を動かしていく。
まるでプロのような動きに、某然としてしまった。

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