Sweet Honey Baby
 「…おじぃちゃ~ん、おはよう~」




 ニコニコと人の良い柔和な顔が振り向く。




 「おはよう、ちーちゃん。とと」




 口を押えながら、周囲を見回し、やれやれ、と庭師の尾崎さんが大げさに胸に手を置き安堵の息を吐いた。




 「お嬢様と言わないとダメでしたの」

 「平気平気。一応、誰もいないのを見計らっていつも声をかけるようにしてるから」

 「でも、習慣っていうものがありますよ。…どうです?お邸には慣れられましたかな」




 尾崎さんは実は、小・中と一緒だった幼馴染みのお祖父さん。


 最初、偶然お邸の庭で見かけた時には驚いて、何日か人違いじゃないかとも思ったりもした。


 でも、子供の頃、何度も何度もお祖父さんのお宅に幼馴染みと遊び行って、お菓子をもらったりした記憶は確かだった。




 「まあ、慣れたっていうか、いやでも慣れないとやっていけないというか」




 生活環境が変わるのはこれで二度目だけど、このお邸にきて何がまいったかと言うと、常日頃から同じ立場で会話できる人たちがいなかったことだ。


 門倉のお邸だって知らない人間の中での再スタートだったし、ムカつくばあさんがあれやこれやとチクチクいびってはくれた。


 それでも、実母だという奥様は思ったほどには嫌な人間ではなかったし、奥様の旦那さん(これってあたしの義父ってことになるのか)は予想外にいい人だった。


 そりゃあね、普通に言う『家族』っていうのとは違うかもしれないけど、とりあえず疎外感ていうか、敬遠されてる感みたいなものは感じなかったんだよね。


 それがこのお邸は、門倉のお邸よりさらに立派で、どこもかしこもピカピカに磨かれ使用人もたくさんで…あたしがいる『場所』が少しもなかった。


 曲りなりとも婚約者やその家族がいれば、気を使っても、ある程度『自分の家』に殉じる場所だと実感ができたかもしれない。


 それなのに、見ず知らずの毛色の違う自分が、膨大な人数の使用人の中へとポンと放り込まれてほって置かれた(花嫁修業はめちゃくちゃ押し付けられたけど)。


 そりゃあさ、昨日まで見ず知らずの人間だった婚約者っていうのも気を遣うもんだし、その家族といきなり同居って時点でどうなのって感じでしょ?


 基本、それほど人と「いたがり」じゃないあたしだって、さすがにまいる。


 このお邸に来た当初は真面目に気鬱気味で、覚悟をしてきたはずなのに、ホームシックにもなったりした。


 …ホームシックってどこに帰るのよ。ここしかもう帰るとこないんじゃない。


 そう自分に言いきかせて、なんとか毎日をやり過ごしていた。


 だから、尾崎のおじいちゃんと再会できたのはあたしにとって、一つの転機であり、救いで。


 いまだにお邸のほとんどの使用人たちは、あたしとは会話らしい会話にも応じてくれないけど、2,3人とはある程度親しくなれた。


 住み込みじゃないけど、こうやって2日に1日通いでやってくる尾崎さんと会話することは、数少ないあたしの心の支え。


 尾崎さんも、子供の頃のあたしを知っているからか、人前はともかく二人の時は孫の友達の『ちーちゃん』として接してくれた。


 …まあ、それでも節度を大事にするっていうのは、尾崎さんの立場を考えると仕方がないか。


 本当は使用人と雇用側の人間とはいっても、こんなに年上の人に敬語を使われるのってかなり落ち着かないんだけどね。




 「…駿も慣れない環境で四苦八苦していたようですが、最近では弱音も言わないようになりましてね」




 幼馴染みの近況に、首を傾げる。



 「以前はそれでも一か月に一度は実家に帰ってきたようなんですが、最近は仕事が忙しい、忙しいと言って、顔も見せないとアレの母親がボヤいてましたよ」

 「へえ?…それは寂しいね」

 「いやいや、頼りのないのは元気な印って言いますよ。第一、若い頃は少しくらい意地を張るくらいでちょうどいい。親の反対を押し切って家を出て、道を切り開こうというのだから、毎月帰って来るようじゃあ、甘えてる」

 「…ははは。ちょっと、耳が痛いかも」




 養父母は、あたしが選択したことを最後まで反対してた。


 …確かに、親の反対を押し切って自分の意思でやり始めたことで、寂しいとか辛いとか言ってられない。


 もう、子供じゃないんだしね。




 「あ、ごめんなさい。いつまでもこうして話しかけてちゃ、お仕事の邪魔だよね。…なるべく話しかけないようにしようとは思ってるんだけど」




 今はまだ、この時間がないと押しつぶされてしまいそうなのが本当のところで。


 気を使わせてしまうと思いつつ、意気消沈してしまうのは抑えられなかった。




 「…いやいや、わしもちーちゃんとお話するのは、この上ない楽しみですよ」




 ポンポンと柔らかく頭を叩かれて、小さく笑う。


 『ちーちゃん』、とあえて言葉かけしてくれた尾崎さんの優しさが嬉しい。




 「じゃあ」




 これ以上、仕事の邪魔をしないように踵を返す。


 はああ、…せめて、大学の講義がビッチリ入ってる時期だったらな。









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