Sweet Honey Baby
 あたし門倉千聡こと、永嶋千聡がなぜ、いまさら受験生真っ青な状態で勉学に励まなければならなくなったのか。


 それは、ちょうど三ヶ月前に遡る。


 東京に居を構える小さな小料理屋の一人娘だったあたしは、ごく普通の4年制大学に通う女子大生だった。


 大学はまあ、一流には届かないけど、三流校というほどでもなく、そこの栄養学科を専攻していたあたしは、栄養士を目指していた。


 …なぜ、調理師じゃないのかって?


 古風な考え方を持つ板前の養父は、女に板場を任せるのを頑固に拒んでいた。


 一人娘とはいえ、跡取りというわけでもなく、店は何年も前から住み込みで修業していた弟子に譲ると決めていたし、あたし自身は比較的自由に育った。


 何をするのも自由。


 どういう将来を考えるのも自由。


 子供の頃は、それが養女ゆえの淡白さなのかと、悩んだけれど、元々養父はそういう人で、大きくなるにつれてそれがわかったので、悩むことはなくなった。


 まあ、物事をいつまでもクヨクヨ考えたり、悲観的になったりするようなタチではなかったってのもあるよね、きっと。


 毎日可でもなく、不可もなく、夢ってほど大きなものは持っていなかったけれど、小料理屋の娘として、ごく普通に料理にも興味があったあたしは、将来適当な病院や施設で働ければいいな、というくらいの認識で、毎日それなりに楽しく過ごしてた。


 ところが、人生20年目にして、いきなりの転機。


 ある朝、珍しく朝の遅い父親を起こしに寝室を覗いてみると、いびきをかいたまま養父は意識を取り戻さなかった…そう、脳梗塞を起こしていたわけ。

 おりも悪く、養母は実家の祖父の法事で家を空けていて、板前の弟子とあたし、養父の三人しか家にいなかった。


 幸い命には別状はなかったけれど、発見が遅れたことで、養父の左半身に麻痺が残ってしまった。


 負けず嫌いだから強気を貫いていたけど、相当ガックリ来たのはあたしの目にもわかった。




 『ざけんなっ。これくらいの麻痺、気力で治してやらあっ!』




 突っぱねる声が、いつもの二割減だったのは、聞いて聞かないフリをするくらいの優しさはあたしにだってある。


 実はそれと同時に、店に借金があることも判明。


 二年ほど前に、かなり大がかりに改装工事をやったばかりだった。


 大がかりって言ったって、手狭だった板場を広げて、内装を変えたってくらいなんだけど。


 てっきり、コツコツ貯めた資金ですべては片付いていたんだって思ってたんだけど、それがそうじゃなかったこってこと。


 なんていうか、養父は真面目だし、板前としての腕も悪くない…それどころか、若い時は一流料亭の板長も勤めたことがある腕利きの職人。


 でもそれだけに、頑固で融通が利かなくって…商売が下手だった。


 今風の流行に乗り遅れて、そんな養父より商才がある養母の諫言も聞かない亭主関白で。


 改装だって、『こんな古臭い店構えじゃあ、若いお客さんが入ってくれないよ』っていう養母の口が酸っぱくなるような説得でやっと重い腰を上げた次第だった。


 まさか、それが裏目にでるなんて。


 ちょうど、斜向かいに大手チェーンのファミレスが出来たり、少し車で行ったところに大がかりなレストラン・コンプレックスが出来たり、うちにとっての逆風が吹いた。


 あれよあれよと顧客がとられ、元々常連客が落としてくれる収益が主体だったうちだったけど、そうした事情でその常連客自体も都会化の波に飲まれ、一人二人と減っていった。


 そして、養父の病状。


 養父が健在だったら、大した額の借金ではなかった。


 でも、外で働いたことのない養母と、まだ大学生のあたし。


 とてもじゃないけど、借金を抱えたまま、店を続けていくなんてことができるはずもない。


 途方にくれたあたしたちに、また転機が訪れた。


 あたしの『実母』を名乗る人の使いが現れたんだ。


 まさに青天の霹靂だよね。


 実母も何も、そんな人たちがいるなんてことはもうとっくの昔にあたしの中では解決済みのことだった。


 養父母はなんとなく事情を知っていたらしいけど、小さな頃ならいざ知らず、養父母があたしを十分に可愛がってくれたのはあたしだってよくわかってる。


 今更…そう、まさに今更って感じで。

 それが、どうやら単純に、あたしって娘が恋しくて連絡してきたわけではないのがわかって、けっこう冷めていたあたしも苦笑いせざるえなかった。









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