Sweet Honey Baby
 「…一ちゃん」




 吐息のような微かな声が聞こえて、視線を向ける。


 と、




 「ありがとね」




 弱々しげな微笑みを浮かべる女の顔が直視できなかった。


 思わず顔を背け、女の視線から顔を隠したくて片手で顎の下を撫でる。


 自分でも、バカじゃねぇかと思うけど、女の礼一つで赤面するとか、どこの純情少年だよ、とか思う。




 「一ちゃんとか言うのやめろっていっただろ」

 「うん、でもさ、今更財前様とか言うのも言いずらいし、一也さんとか言うのもねぇ」




 一也さん…それでどこが悪いんだとは思うが、まあ、確かにいまさら気取ってんよな、とは思う。




 「一也でいい」

 「そ?一ちゃんの方が可愛いんじゃない?」

 「…ふざけんなっ」

 「あははは、じゃあ、一也。あたしは千聡様でいいよ」

 「言うわけねぇだろ、この能天気女ッ」

 「じゃあ、ちーちゃん」

 「……」




 だいぶ元気になってきたのか、軽口を叩きだす女の様子に安心して、聞いてみる。




 「何言われてたんだよ?」

 「ん~?」

 「なんか、言われてたんだろ?図太いお前があんな顔すんなんて、よっぽどのことだろうよ」

 「…図太いってけっこう失礼だね、あんた」




 俺をあんた呼ばわりする女もお前くらいなもんだ。


 そう思いつつ、元気になった女がさっきまで寄りかかっていた頭を戻して、少し離れたのを少し寂しく思う。


 …少しじゃねぇな。


 なんでこいつはこんなに他人行儀なんだろう。


 今までの女たちは、俺がウザイって思うくらいに馴れ馴れしくって、一回寝ただけでもう俺の女気取りで、俺からできるだけ引き出せるだけのものをすべて引き出そうと躍起になっていた。


 それなのに、この女はどこまでも俺に対して壁を壊そうとしないで、一歩引いたところに立っている。


 ふいに…ふいに俺はその理由に思い当たった。


 この女は俺に対して何の期待もしていない。


 俺からの愛情も、献身も…下手をすれば一生無視しあう仮面夫婦であることを強いられたとしても、きっとこんなふうにふにゃりと笑って平然としているのだろう。




 「…なんか、ムカつく」

 「へ?なによ、藪から棒に」

 「うるせぇ」




 怪訝な女の顔を見ていてホント、ムカついてくる。


 ムカつくのに、そのキョトンとした顔が無性に可愛いとか、化粧してめかしこんだ姿が他の女どもなんか目じゃねぇくらいイカしてたとか、本当はそんなことを言いたい自分がもっとムカついてしょうがなかった。




 「いいから、俺の聞いたことに答えろよ。何言われてた?なんで、あんな倒れそうな顔色してたんだよ?」









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