躊躇いと戸惑いの中で
「降って沸いたような本社への誘いに、僕、実は凄く動揺してたんです。河野さんの飲み方もテンション上がってたし、もしかしたら、からかわれてるかもしれないって。だから、一旦家に戻ってよく考えてみようって」
なーるほど。
真面目で重要な話のはずなのに、あの感じじゃあ疑ってもおかしくないか。
私の頬が緩む。
「けど、一日経ってもからかわれてるわけじゃないし。碓氷さんも心配して店にまで顔出してくれるし」
あ、安否確認だって、気づかれてたのね。
緩んだ顔が苦笑いに変わる。
「碓氷さんは、本社勤務を最初から希望していたんですか?」
「ううん。私も乾君と一緒。扱っている商品が好きでね。私の場合は、古本なんだけど。あの、古い紙の匂いや、何度も色んな人の手を渡ってきた本がすごく愛しくてね。初めて店舗勤めをした日、沢山の本に一日中囲まれて居られることが、なんて幸せなんだろうって考えてた。だけど、現実は厳しいよね。お客じゃなくて店員だから。いっくら大好きな本に囲まれれてても、そこにある本を読み漁るわけにもいかないし、立ちっぱなしで足は痛いしね」
入社当時のことを思い出して、苦笑いが漏れる。
「それから、なんだかんだと仕事をしているうちに、気がつけば本社勤務になっていました」
昔のことを思い出すと、一生懸命に新しいことを覚えようと日々必死になっていた自分に歯がゆくなる。
過去に行って自分に会えるなら、毎日お疲れ様って労ってあげたいくらい。
今も残業なんて当たり前のようにして、毎日一生懸命に仕事をやっているけれど。
あの頃のような純粋さというか、未来に夢を持っていたようなキラキラした感情にはならない。
これが年をとっていくということなのかな。
その点乾君は、入ってきたばかりで、キラキラ感が私とは決定的に違う。
さっき話して聞かせてくれたあとのサラリとした笑顔は、それでも十分眩しかったもの。
「どうしたんですか?」
乾君の眩しさに、自然と目じりが下がっていたらしい。
「眩しいなって思って」
「え? 夜ですよ」
「わかってるって」
意外と天然な反応を見せる乾君に、思わず笑いが漏れ出た。