躊躇いと戸惑いの中で
乾君が言ってくれたことや、こうやってキスをされても、何故だか、気持ちが慌てふためくことはなかった。
ただ、優しく触れた唇がとても心地よくて、私自身に魔が刺しているような気分だった。
社内で、それも年下の新入社員とキスをするなんて、考えたこともなかったな。
だけど、今のこの瞬間を壊すことはできなくて、寧ろ長くこの時間を楽しみたいとさえ考えてしまう。
「碓氷さん」
離れた唇からもれる自分の名前を、どこか俯瞰したような感覚で聞いていた。
「キス、してもいいですか?」
乾君の問いかけに、今したじゃない。
そんな風に思いながらも、迷うことなく受け入れる自分がいる。
さっきのように近づく唇を今度は自分から合わせた。
啄むようなキスが何度も続き。
触れ合う音が、給湯室の床に零れ落ちていく。
そうしているうちに、深くなるキスに応え絡まる舌先。
シンクへ後ろ手についていた手は、気がつけば乾君に抱きつくようにしがみつき。
こんなところ、河野が見たらとても驚くんだろうな、なんて他人事みたいなことを考えてもいた。
長く続くキスを邪魔するみたいに、ドリップの終わったコーヒーが湯気を上げ、香りを漂わせている。
その香りに包まれ、乾君の胸に収まったままでいた。
「僕、碓氷さんが好きです」
耳もとで囁かれる、優しくて甘い真っ直ぐな気持ちが嬉しかった。
「ありがと」
そう応えて私は彼の胸から離れる。
「コーヒー、飲もうか」
乾君へ答を出さないまま、私はいつもと変わらない時間を過ごす。