夫の顔
タクシーでオフィスに戻るともう三時を過ぎていた。デスクの上の書類はさらに増えている。ああ、もう……今日はやる気しない……あ、内線。
「はい、サクラです」
「シミズだけど」
人事部長。コイツ、苦手。
「ちょっと、人事部まで来て」
「はい」
ノジマくんのことか……
人事部のこの雰囲気……息が詰まんないのかな。重い。
「ノジマのことですか」
「困るんだよね。勝手に休職とか。病院に行く前に相談してくれないと」
「明らかにメンタルヘルス不調を認めましたので。マニュアル通りに行動したまでです」
「メンタルヘルス不調を引き起こしたのは誰の責任かね」
はあ? 私のせいだっていうわけ? 冗談じゃない。プレゼンが苦手だと訴え続けていたノジマくんを企画部から異動させなかったのはアンタでしょ!
「人事に問題はありませんでしたか。異動の希望は出ていたはずです」
「人事の責任だというのか!」
ええ、そうですよ。アンタの責任。能無し人事部長シミズ、アンタの責任。
「そうですね。企画部にいる以上は、企画部の仕事をしてもらわないといけませんので。私は管理監督者として、当然の業務配分を行い、教育をしたまでです」
ふん、そんなユデダコみたいに顔真っ赤にしちゃって。私はプレゼンの鬼と呼ばれた女ですよ? 私に論戦で勝てると思ってるの? これだから嫌なのよ。年功序列で昇進した能無しのオッサンは。バッカみたい。
「休職届は、ご家族に説明してから提出します。もうよろしいですか? 仕事がありますので」
アンタと違って私は超忙しいの。
「サクラ」
「はい。何でしょうか」
「人事部長にそんな態度でいいのか?」
出た。職権乱用。公私混同。パワハラモラハラ。ハラスメントの見本みたいなヤツ。
「どういう意味ですか。私の能力や希望と関係なしに、私情によって不合理な人事をされるおつもりですか。そのような事態になったらパワーハラスメントで訴えますよ」
ああ、いい世の中になったわね。こんなバカな上司を正当に追求できるんだから。
「……ノジマの報告はマメにするように」
「はい、失礼します」
えっ! もう四時! 全然仕事終わってないし……とりあえず、至急の分からやっつけるか。企画書の承認に報告書のチェック、営業部と広報部との折衝、クライエントとの打合せ、部下の相談、同期の愚痴、上司の小言。はいはい、全部一気に背負いますよ。解決しますよ。だって私はできる女だから。
私はビジネスマンとして、部長として、部下として、同胞として、オシャレなスーツに身を包み、完璧なメイクで、毎日朝九時半から夜七時まで、かっこいいキャリアウーマン。
仕事の能力も、部下からの信頼も、上司からの評価も、お給料も、ステイタスも、みんなハイクラス。そう、それが私の目指していた姿。
プライベートは? そうね、充実してる。公認会計士のイケメンの夫、都心にそびえるタワーマンション、週三回現れるハウスキーパー、クロゼットに並ぶハイブランドの服にバッグ。エステも美容院も時間さえあれば自由に行ける。
ねえ、憧れるでしょ? そこのママ軍団。私の夫のスーツはハルヤマじゃなくってアルマーニ。ランチは千五百円のフレンチに毎日でも行けるの。ああ、なんて幸せ。あ、幸せに浸ってたらもう六時じゃない。ノジマくんのこと、みんなに言わないと。
「ねえ、ちょっと聞いてくれる? ノジマくんなんだけど、体調不良で、しばらく療養することになったの。明日から休職になるから、みんなカバーしてあげてね」
「ノジマくん、なんか病気なんですか?」
「うん、ちょっとね。でも、大丈夫だから。心配しないで」
「部長、でも、結構いっぱいいっぱいですよ、みんな」
「そうね、わかってる。人事部には、補充をお願いしてるから。私もできるだけカバーするから、みんなも協力して。お願いします。ノジマくんが戻ってこれるように、みんなでフォローしましょう」
ああ、私ってなんていい上司! ほら、みんな、しょうがないなって、笑ってくれてる。私の教育のおかげよね。
定時の六時半になると、みんなポツポツと帰り始める。基本、残業は禁止。時間内に仕事が終えられないのは、能力か、配分か。それを見極めるのが私の仕事よね。そう、我が企画部はほとんど残業はなし。長い時間会社にいればいいっていうもんじゃないのよね。今だに営業部とかそんな感じだけど。
さて、そろそろ私も帰ろうっと。
「おつかれさまー」
タイムカードの打刻は六時四十五分。余裕ね。
「はい、サクラです」
「シミズだけど」
人事部長。コイツ、苦手。
「ちょっと、人事部まで来て」
「はい」
ノジマくんのことか……
人事部のこの雰囲気……息が詰まんないのかな。重い。
「ノジマのことですか」
「困るんだよね。勝手に休職とか。病院に行く前に相談してくれないと」
「明らかにメンタルヘルス不調を認めましたので。マニュアル通りに行動したまでです」
「メンタルヘルス不調を引き起こしたのは誰の責任かね」
はあ? 私のせいだっていうわけ? 冗談じゃない。プレゼンが苦手だと訴え続けていたノジマくんを企画部から異動させなかったのはアンタでしょ!
「人事に問題はありませんでしたか。異動の希望は出ていたはずです」
「人事の責任だというのか!」
ええ、そうですよ。アンタの責任。能無し人事部長シミズ、アンタの責任。
「そうですね。企画部にいる以上は、企画部の仕事をしてもらわないといけませんので。私は管理監督者として、当然の業務配分を行い、教育をしたまでです」
ふん、そんなユデダコみたいに顔真っ赤にしちゃって。私はプレゼンの鬼と呼ばれた女ですよ? 私に論戦で勝てると思ってるの? これだから嫌なのよ。年功序列で昇進した能無しのオッサンは。バッカみたい。
「休職届は、ご家族に説明してから提出します。もうよろしいですか? 仕事がありますので」
アンタと違って私は超忙しいの。
「サクラ」
「はい。何でしょうか」
「人事部長にそんな態度でいいのか?」
出た。職権乱用。公私混同。パワハラモラハラ。ハラスメントの見本みたいなヤツ。
「どういう意味ですか。私の能力や希望と関係なしに、私情によって不合理な人事をされるおつもりですか。そのような事態になったらパワーハラスメントで訴えますよ」
ああ、いい世の中になったわね。こんなバカな上司を正当に追求できるんだから。
「……ノジマの報告はマメにするように」
「はい、失礼します」
えっ! もう四時! 全然仕事終わってないし……とりあえず、至急の分からやっつけるか。企画書の承認に報告書のチェック、営業部と広報部との折衝、クライエントとの打合せ、部下の相談、同期の愚痴、上司の小言。はいはい、全部一気に背負いますよ。解決しますよ。だって私はできる女だから。
私はビジネスマンとして、部長として、部下として、同胞として、オシャレなスーツに身を包み、完璧なメイクで、毎日朝九時半から夜七時まで、かっこいいキャリアウーマン。
仕事の能力も、部下からの信頼も、上司からの評価も、お給料も、ステイタスも、みんなハイクラス。そう、それが私の目指していた姿。
プライベートは? そうね、充実してる。公認会計士のイケメンの夫、都心にそびえるタワーマンション、週三回現れるハウスキーパー、クロゼットに並ぶハイブランドの服にバッグ。エステも美容院も時間さえあれば自由に行ける。
ねえ、憧れるでしょ? そこのママ軍団。私の夫のスーツはハルヤマじゃなくってアルマーニ。ランチは千五百円のフレンチに毎日でも行けるの。ああ、なんて幸せ。あ、幸せに浸ってたらもう六時じゃない。ノジマくんのこと、みんなに言わないと。
「ねえ、ちょっと聞いてくれる? ノジマくんなんだけど、体調不良で、しばらく療養することになったの。明日から休職になるから、みんなカバーしてあげてね」
「ノジマくん、なんか病気なんですか?」
「うん、ちょっとね。でも、大丈夫だから。心配しないで」
「部長、でも、結構いっぱいいっぱいですよ、みんな」
「そうね、わかってる。人事部には、補充をお願いしてるから。私もできるだけカバーするから、みんなも協力して。お願いします。ノジマくんが戻ってこれるように、みんなでフォローしましょう」
ああ、私ってなんていい上司! ほら、みんな、しょうがないなって、笑ってくれてる。私の教育のおかげよね。
定時の六時半になると、みんなポツポツと帰り始める。基本、残業は禁止。時間内に仕事が終えられないのは、能力か、配分か。それを見極めるのが私の仕事よね。そう、我が企画部はほとんど残業はなし。長い時間会社にいればいいっていうもんじゃないのよね。今だに営業部とかそんな感じだけど。
さて、そろそろ私も帰ろうっと。
「おつかれさまー」
タイムカードの打刻は六時四十五分。余裕ね。