孤高の貴公子・最高責任者の裏切り
4/27 痴漢
(4/27)
♦
「早起きしてて、良かったです……」
「…………」
午前11時の本社の会議に間に合うように、10時に須藤と新都店で待ち合わせしていた山瀬であったが、8時過ぎに須藤からの電話により、大通りの真下の水道管が破裂し通行止めになっていることを知った。
それが故の満員電車である。
朝のラッシュ時間を少し過ぎた9時半だったが、それでもすし詰め状態だった。
40分ほど電車に揺られたが、公共交通機関の強みで余裕で本社へと入ることができる。
秘書と言われたものの、実際は書類の準備をして、後ろについて行くだけで大した仕事ではないようだ。会議室でも隣に座ることなどあるのだろうか、それとも部屋の外で待ちぼうけだろうかと予想しながら、そのすらっとした背中を見ていると急に振り返られ、心の中の声が聞こえていたのではないかと驚いた。
「先に言っておくが、本社はいつもの店とは別世界だ。1人でうろうろすることがないように。特に昼の食事の時間は必ず、俺の隣に座ること。1人で座ると恥をかくぞ」
「…………か、しこまりました」
真っ直ぐな視線が痛く、恥をかく妄想が次々に浮かび上がった。お茶をこぼし、世間話でとんちんかんな事を言うあり得る赤っ恥が。
食事会って……最悪だな……須藤マネージャーとも一緒に食べたことがないのに……。溜息をこっそり吐きながら、山瀬は本社の中へと入りこんでいく。
11時、社長講話。
12時、食事会。
本社の食堂ではない、近くの国際ホテルの最上階、レストランスカイ東京に用意されたコースランチは、6人がけの円卓が8つほどあり、自由に席につけるようになっていた。
山瀬はずっと須藤の後についているので、自信を持ってその隣に腰かけようとするが、
「…………」
一歩遅く、椅子の前に立つなり年配の男性がその椅子を手にとり、気付けば須藤が引いた椅子の円卓は全員腰かけている。バチリと鋭い視線と合ったが、すぐに隣の年配が須藤に話かけたことで、山瀬は隣の円卓の椅子を手にとらざるを得なくなった。
なんとか腰かけ、ちら、と隣の男性の胸元にあるネームプレートを見る。と、『宮下』と表記されている。
山瀬はなんとなく気になって自分のネームプレートを見たが、しっかり名前が見えるようについていてほっとした。
特に何も会話がないまま、静かにスープが運ばれてくる。周囲の席は談笑で盛り上がっている中、わりと静かな人が集まったのか、何も会話がないまま料理だけが進んで行った。
メインディッシュがテーブルに並んだ時、対面している2人が少し会話したのをきっかけに、ようやく周囲にそれが飛び火した。
「山瀬さん、はどちらの所属ですか?」
年は40近くだろうか、清潔そうでそれでいて凛々しく若々しい隣の宮下は、好印象そのものであった。
「私は、新都店です。普段は、修理センター代理とサブマネ補佐を兼ねています」
「えっ、1人で、2役!?」
宮下は驚いて顔を引いた。
「でも、2役というほどのことができているわけではありません……と思います。だから、修理の方は長に任せることが多いです」
「まあ、そうなりますよね……。それにしても、さすが須藤マネージャー。素晴らしい」
「え、ああ……そうですよね……。宮下さんは……?」
「私は本社の営業代理です。ですが、最近入社したばかりで、山瀬さんのことを存じ上げなくてすみませんでした」
「いえっ、私なんか……」
年齢は明らかに新卒ではない。とすれば他社から来たのだろう……。
結婚指輪をしているし、腕のロレックスも須藤がしている物に比べると年季が入っているような気がする。
それなりにお互い無難な会話を終えたところで、食事会もお開きになる。良かった。相手が優しい人でなんとか恥はかかずにすんだ……と思う。
午後からは、1時半から5時半まで会議があり、書記的な役割をそれなりに全うした後、6時を過ぎて本社を出た。
明日も朝から早いと思うと、空を見上げて溜息をつかざるを得ない。
「この時間は電車が込むが仕方ない」
スマホでニュースを見ると今日の通行止めが大きく報道されており、電車はこれ以上ない混みようだ。
40分ほどの乗車時間で、降りる駅もちゃんと分かっているが、須藤を見失うわけにはいかないと、乗り込むなりすぐ側でマークする。
ところが、最初の中央駅から駅員が人を押し込むほどの勢いで、行きのすし詰めより更に密度は高くなった。
あの孤高な須藤マネージャーに触れることなど許されない気がして、最初は触れるのを避けていたが、次第に知らない加齢臭のするオヤジのスーツに顔を密着させるほどの息苦しさになり、それならと、
「す、すみません。すみません……ちょっとあの、身動きできなくて……」
と平謝りしながら平たいスーツの背中に頬をつけた。しかし、ファンデーションの汚れを気にして、すぐに顔を浮かせる。
「痴漢じゃないですからね」
と言って笑いをとりたかったが、相手が須藤だとそれも制限される。
それに対して須藤も
「ああ……」
としか、答えもしない。
両手に荷物を持ったままだらんと垂らし、ドアが閉まった頃には結局須藤の背中に頬を預けていた。
周りも「すみません」や「いてぇなコラ!」、「ち、ちょっと次降りるんで……」とそう言われてもどうしようもない限界の状態が続く。
それでも、20分くらい経った頃だろうか。違和感を感じたのは。
最初から全身が固まってしまっていたが、すぐにそれが、気のせいではないことを悟る。
お尻に明らかな人間の「掌」の気配が感じられた。
それが、上、下、右、左と移動する。
後ろにどんな人物が居たのかはもう全く分からない。
かといって、今更振り返るのも怖い。
両手は塞がっている。特に右手で持っている書類は須藤から預けられた大事な物だ。企業秘密書類は持ち運び禁止なのでそれほどではないが、こんな不特定多数の人間が出入りするような電車で晒す事ができるような物ではない。
左手の自分の荷物を右手に持ちかえようとしたが、それもできないほど人が込み合っている。
『……駅……駅……』
アナウンスの後、扉が開いた。この瞬間しかない、と足を前へ踏み出して逃げる。
大勢の人が入り乱れる中、あと一駅という所まできている。これで人の流れが変われば、撒けるのに。
「山瀬」
呼ばれて、慌てて顔を上げると、真正面に須藤の顔が見えた。
「あっ、はいっえっ!?」
気配がして後ろを振り返った。真後ろには妊婦がおり、こちら向きに必死で腹を抱えている。
「あっ、すみません……」
山瀬は慌てて寄れるはずもない前に寄った。
「わっ、すみません……」
須藤の靴にぶつかり、足だけ後ろに下がる。胸は完全にスーツのボタンに触れ合っている。
微かに良い匂いがそのスーツから漂っていることを知り、一瞬現実から逃避してしまう。
須藤はつり革を持っており、姿勢が安定しているようだ。
「はあ……」
何気に溜息をついた途端、
「!!!」
後ろには妊婦しかいないはずなのに……。
手が膝の内側に入り込んできていた。
嘘、しゃがんで触ってる!?
手が少し上へ上がる。
そんな、待って……嘘……誰!?
「山瀬」
心臓がどきどきして、怖くて、須藤のスーツのボタンしか目に入らない。
「山瀬!」
「あっ、はい」
山瀬は慌てて顔を上げた。
「荷物持つよ。そっちの」
重いのは自分の鞄だったが、軽い方の書類を持ってくれるらしい。
しかし、それでもありがたい。
「ありがとうございます」
いっぱいいっぱいだった山瀬は、断ることもなく、あっさり須藤に荷物を渡して、再び神経を集中させる。
そうしていると、再び手がゆっくりと現れた。
今になって気付く。須藤が話かけてきた瞬間、手を抜いたのだ。
手が少し、上に上がる。
待って。
もう少し上がり、スカートの裾が持ち上がる。
手はそして、太ももの真ん中あたりまできた。
思わず、空いた手で須藤のスーツの脇腹辺りを握り締めた。
「山瀬?」
同時に、手が引っ込む。
「山瀬……。そろそろ着くよ」
ちら、と外の景色を見た。見慣れた、いつもの風景だ。
「あ……ぁ……」
それしか答えられない。
「今日家、誰かいる? 今の時間」
「えっ……ああ……今、何時でしたっけ?」
左手の安物の腕時計のことなどすっかり忘れていた。
だが、須藤はそれに動じず、
「7時少し前」
「えーっと……」
「送るよ。駅から少し距離あるし」
「えっ、そんなだって、歩いても近いし」
「いい。今日は送る」
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「早起きしてて、良かったです……」
「…………」
午前11時の本社の会議に間に合うように、10時に須藤と新都店で待ち合わせしていた山瀬であったが、8時過ぎに須藤からの電話により、大通りの真下の水道管が破裂し通行止めになっていることを知った。
それが故の満員電車である。
朝のラッシュ時間を少し過ぎた9時半だったが、それでもすし詰め状態だった。
40分ほど電車に揺られたが、公共交通機関の強みで余裕で本社へと入ることができる。
秘書と言われたものの、実際は書類の準備をして、後ろについて行くだけで大した仕事ではないようだ。会議室でも隣に座ることなどあるのだろうか、それとも部屋の外で待ちぼうけだろうかと予想しながら、そのすらっとした背中を見ていると急に振り返られ、心の中の声が聞こえていたのではないかと驚いた。
「先に言っておくが、本社はいつもの店とは別世界だ。1人でうろうろすることがないように。特に昼の食事の時間は必ず、俺の隣に座ること。1人で座ると恥をかくぞ」
「…………か、しこまりました」
真っ直ぐな視線が痛く、恥をかく妄想が次々に浮かび上がった。お茶をこぼし、世間話でとんちんかんな事を言うあり得る赤っ恥が。
食事会って……最悪だな……須藤マネージャーとも一緒に食べたことがないのに……。溜息をこっそり吐きながら、山瀬は本社の中へと入りこんでいく。
11時、社長講話。
12時、食事会。
本社の食堂ではない、近くの国際ホテルの最上階、レストランスカイ東京に用意されたコースランチは、6人がけの円卓が8つほどあり、自由に席につけるようになっていた。
山瀬はずっと須藤の後についているので、自信を持ってその隣に腰かけようとするが、
「…………」
一歩遅く、椅子の前に立つなり年配の男性がその椅子を手にとり、気付けば須藤が引いた椅子の円卓は全員腰かけている。バチリと鋭い視線と合ったが、すぐに隣の年配が須藤に話かけたことで、山瀬は隣の円卓の椅子を手にとらざるを得なくなった。
なんとか腰かけ、ちら、と隣の男性の胸元にあるネームプレートを見る。と、『宮下』と表記されている。
山瀬はなんとなく気になって自分のネームプレートを見たが、しっかり名前が見えるようについていてほっとした。
特に何も会話がないまま、静かにスープが運ばれてくる。周囲の席は談笑で盛り上がっている中、わりと静かな人が集まったのか、何も会話がないまま料理だけが進んで行った。
メインディッシュがテーブルに並んだ時、対面している2人が少し会話したのをきっかけに、ようやく周囲にそれが飛び火した。
「山瀬さん、はどちらの所属ですか?」
年は40近くだろうか、清潔そうでそれでいて凛々しく若々しい隣の宮下は、好印象そのものであった。
「私は、新都店です。普段は、修理センター代理とサブマネ補佐を兼ねています」
「えっ、1人で、2役!?」
宮下は驚いて顔を引いた。
「でも、2役というほどのことができているわけではありません……と思います。だから、修理の方は長に任せることが多いです」
「まあ、そうなりますよね……。それにしても、さすが須藤マネージャー。素晴らしい」
「え、ああ……そうですよね……。宮下さんは……?」
「私は本社の営業代理です。ですが、最近入社したばかりで、山瀬さんのことを存じ上げなくてすみませんでした」
「いえっ、私なんか……」
年齢は明らかに新卒ではない。とすれば他社から来たのだろう……。
結婚指輪をしているし、腕のロレックスも須藤がしている物に比べると年季が入っているような気がする。
それなりにお互い無難な会話を終えたところで、食事会もお開きになる。良かった。相手が優しい人でなんとか恥はかかずにすんだ……と思う。
午後からは、1時半から5時半まで会議があり、書記的な役割をそれなりに全うした後、6時を過ぎて本社を出た。
明日も朝から早いと思うと、空を見上げて溜息をつかざるを得ない。
「この時間は電車が込むが仕方ない」
スマホでニュースを見ると今日の通行止めが大きく報道されており、電車はこれ以上ない混みようだ。
40分ほどの乗車時間で、降りる駅もちゃんと分かっているが、須藤を見失うわけにはいかないと、乗り込むなりすぐ側でマークする。
ところが、最初の中央駅から駅員が人を押し込むほどの勢いで、行きのすし詰めより更に密度は高くなった。
あの孤高な須藤マネージャーに触れることなど許されない気がして、最初は触れるのを避けていたが、次第に知らない加齢臭のするオヤジのスーツに顔を密着させるほどの息苦しさになり、それならと、
「す、すみません。すみません……ちょっとあの、身動きできなくて……」
と平謝りしながら平たいスーツの背中に頬をつけた。しかし、ファンデーションの汚れを気にして、すぐに顔を浮かせる。
「痴漢じゃないですからね」
と言って笑いをとりたかったが、相手が須藤だとそれも制限される。
それに対して須藤も
「ああ……」
としか、答えもしない。
両手に荷物を持ったままだらんと垂らし、ドアが閉まった頃には結局須藤の背中に頬を預けていた。
周りも「すみません」や「いてぇなコラ!」、「ち、ちょっと次降りるんで……」とそう言われてもどうしようもない限界の状態が続く。
それでも、20分くらい経った頃だろうか。違和感を感じたのは。
最初から全身が固まってしまっていたが、すぐにそれが、気のせいではないことを悟る。
お尻に明らかな人間の「掌」の気配が感じられた。
それが、上、下、右、左と移動する。
後ろにどんな人物が居たのかはもう全く分からない。
かといって、今更振り返るのも怖い。
両手は塞がっている。特に右手で持っている書類は須藤から預けられた大事な物だ。企業秘密書類は持ち運び禁止なのでそれほどではないが、こんな不特定多数の人間が出入りするような電車で晒す事ができるような物ではない。
左手の自分の荷物を右手に持ちかえようとしたが、それもできないほど人が込み合っている。
『……駅……駅……』
アナウンスの後、扉が開いた。この瞬間しかない、と足を前へ踏み出して逃げる。
大勢の人が入り乱れる中、あと一駅という所まできている。これで人の流れが変われば、撒けるのに。
「山瀬」
呼ばれて、慌てて顔を上げると、真正面に須藤の顔が見えた。
「あっ、はいっえっ!?」
気配がして後ろを振り返った。真後ろには妊婦がおり、こちら向きに必死で腹を抱えている。
「あっ、すみません……」
山瀬は慌てて寄れるはずもない前に寄った。
「わっ、すみません……」
須藤の靴にぶつかり、足だけ後ろに下がる。胸は完全にスーツのボタンに触れ合っている。
微かに良い匂いがそのスーツから漂っていることを知り、一瞬現実から逃避してしまう。
須藤はつり革を持っており、姿勢が安定しているようだ。
「はあ……」
何気に溜息をついた途端、
「!!!」
後ろには妊婦しかいないはずなのに……。
手が膝の内側に入り込んできていた。
嘘、しゃがんで触ってる!?
手が少し上へ上がる。
そんな、待って……嘘……誰!?
「山瀬」
心臓がどきどきして、怖くて、須藤のスーツのボタンしか目に入らない。
「山瀬!」
「あっ、はい」
山瀬は慌てて顔を上げた。
「荷物持つよ。そっちの」
重いのは自分の鞄だったが、軽い方の書類を持ってくれるらしい。
しかし、それでもありがたい。
「ありがとうございます」
いっぱいいっぱいだった山瀬は、断ることもなく、あっさり須藤に荷物を渡して、再び神経を集中させる。
そうしていると、再び手がゆっくりと現れた。
今になって気付く。須藤が話かけてきた瞬間、手を抜いたのだ。
手が少し、上に上がる。
待って。
もう少し上がり、スカートの裾が持ち上がる。
手はそして、太ももの真ん中あたりまできた。
思わず、空いた手で須藤のスーツの脇腹辺りを握り締めた。
「山瀬?」
同時に、手が引っ込む。
「山瀬……。そろそろ着くよ」
ちら、と外の景色を見た。見慣れた、いつもの風景だ。
「あ……ぁ……」
それしか答えられない。
「今日家、誰かいる? 今の時間」
「えっ……ああ……今、何時でしたっけ?」
左手の安物の腕時計のことなどすっかり忘れていた。
だが、須藤はそれに動じず、
「7時少し前」
「えーっと……」
「送るよ。駅から少し距離あるし」
「えっ、そんなだって、歩いても近いし」
「いい。今日は送る」