孤高の貴公子・最高責任者の裏切り

 
 須藤に一体どんな心境の変化があったのだろう。まさか、スーツのクリーニング代を請求するつもりではなかろうな。

 不安に思いながら、須藤の後について駅を出た。

 朝は駅の改札口で待ち合わせをしたし、いつも店内でしか会わないので須藤が何の車に乗っているのかは知らない。

「…………」

 無言で駐車場まで後ろをついていき、シトロエンの黒のセダンの前で足を停めた。

 須藤はロックを解除すると、「乗って」と一言出す。

「あっ、すみません……」

 消え入りそうな声でなんとかお礼を言うと、山瀬はそのまま助手席に滑り込んだ。

 車内には一切物が置いておらず、匂いもあまりしない。

 須藤の私的空間でありながら、何も感じることができないその独特な雰囲気にますます謎が深まった。

「あの、わざわざすみません。ありがとうございます」

「……いや」

 徒歩5分の距離は信号もないので、1分弱で簡単に借家に到着してしまう。

「あの、ありがとうございました。助かりました」

「……さっき、後ろから触られてたみたいだったから」

「え?」

 真っ直ぐ前を向き、ハンドルに手をかけたままの須藤の横顔を、山瀬は覗き込むようにして確認した。

「最初に乗った時からずっと同じ男が後ろでごそごそしてたから。このまま1人で下したら危ないと思って……」

「気付いてたんですか?」

 低い声で聞き、無心で、答えを待った。

 あんな、気持ち悪い思いを1人で我慢していたのに。

 すぐ側にいた須藤は気付いていた!?

 しかも、気付いていながら、そのまま何もしてくれなかった!?

「周りの何人かね」

 あり得ないでしょ……。

 そんな……。

 何普通に言ってんの……。

 嫌がってたのも見てたって事でしょ……。

「そんな……」

「でもすぐそこだったし、大声出して逆に迷惑かけてもいけないから」

「何の迷惑なんですか」

 相手は須藤だ。 

 その声が怒りにまみれていたが、だけど今はそんなことはどうでも良かった。

「君にだよ。配慮したつもりだ。人前で痴漢されたことを晒される方が辛いだろ」

 口調がいつもよりもきついせいで、逆に腹が立った。

「だからって見てただけですか!? 私があの間、嫌がってると思わなかったんですか!?」

「といってもほんの、1、2分の出来事だったと思うけど」

「1、2分って……。

 信じらんない……。

 私……もっと前の方に寄りたかったけど、須藤マネージャーのスーツにファンデーションがつくといけないと思って……たのに……」

 言葉が続かなくて、ドアを開けた。

 家はすぐそこだ。もう、帰った方がいい。

 涙が溢れて、止まらなかった。

 最悪だった。

 最低だった。

 あり得ないくらい、最悪だった。

 車からすぐに降りると、乱暴にドアを閉め直す。

「おかえ……り? どないしたん」

 家にはちゃんと明かりが灯っていて、おかえりと言ってくれる人がいるのに。

「…………痴漢された」

 その事実は何も変わらない。

「ええ!? あっ、え? 電車で? 今日電車とかゆーてへんかった?」

 和久井は驚きながらもわざわざ座椅子から立ち上がって玄関まで出て来てくれる。

「……」

 とりあえず手荷物だけ床に置いて溜め息を吐こうとした瞬間、後ろからピンポーンと派手な呼び鈴の音がした。

 ドアの鍵はまだかけてない。従って、三浦ではない。

 まさか……。

「さあさ、中入り。って誰か宅急便頼んだー?……うわあ!!」

 そこにはやはり。

「こんばんは。突然で驚かせて申し訳ない」

「えっ……いえっ……。わ、すれ物……かなんか? ですか?」

 和久井は山瀬と今来たばかりの須藤を交互に見る。

「いや、山瀬が心配で顔を見に来た。だけど……来て正解だったようだな」

 山瀬は袖口でぐいと涙を拭った。

「上がっても?」

 須藤は和久井に確認し、「あ、はい……」という返事を聞いてから靴を脱ぐ。

 須藤は先に玄関に上がってから、まだ靴のままの山瀬の真正面に立つと、

「まあ、座ろう」

 まるで我が家のように、招き入れる。

 その奥では無関係の和久井がガサガサとテーブルの上を片付けている。
 
 山瀬は、秘かに小さく溜息をついてから、靴を脱いでいつものようにリビングに上がった。

 ガサガサしていたはずのテーブルには、それでもビールやら弁当やらが綺麗に端に寄せられているだけで、気付けば和久井もじっと山瀬を見上げていた。

 須藤がカーペットの上にあぐらをかき、ようやく山瀬も膝を地に着けことができる。

「山瀬?」

 聞いたことのない甘い声に、山瀬は驚いて須藤を見た。

 目がしっかりと合い、全く知らない人物に見えるほど、その表情は不安気だった。

「悪かったな……。人目を気にせず、強引に引き剥がしていればよかった」

 いや……えっ……。そう言われると、何も言えなくなってしまう。

「…………すみません」

 山瀬はただ頭を下げた。

「山瀬……」

 須藤はいつにない、穏やかな声で続けた。

「山瀬には本当にいつも感心している。いつも、期待を裏切らない。それよりも期待の上をいく」

「……そんなことありません」

 そう言われると明日が辛くなって、表情が複雑になってしまう。

「修理センター長代理、サブマネージャー補佐、今日は秘書役まできちんとこなしてくれた」

「そんなことありません。今日は食事の時隣に座れなかったし……春野さんが来てからは、修理の方が手つかずになってるし……」

「それは当然だろう。サブマネージャー補佐の仕事が分かりだすと、仕事の量がハンパでないことに気付く。いづれはそれもどうにかしなければいけない問題だ。

 ただ、修理の方も山瀬が来てからぐんと良くなっている。この調子だと、次の監査でランクが上がれば正社員を増やしてもらえるかもしれない」

「えっ、そんなのあるんですか!?」
 
 山瀬は驚きと喜びで一気に表情を変えて、膝を折って須藤の隣に腰かけた。

「ああ、年に一度、ランク決めの監査がある。その調査次第で適正人数が変わり、正社員の比率が上がったり下がったりする。正社員があと1人増えればもう少し楽になるだろう」

「そうですね………そうなんですね!! びっくりしました、そんなことが可能なんて!!」

「完全に可能にするには、もう少し状況を良くしないといけない。色々条件もあるしな」

「はい!! そうなんですか、春野さんともう少し相談します!」

「それで正社員が1人増えれることになれば、山瀬はサブマネージャー補佐として完全に身を委ねることができる。そうすれば休日出勤や残業ももっと減るだろうし、何より1つの業務に集中できる」

「いやでも私、仕事好きですし」

 その言葉を聞いて、隣でずっと話を聞いていた和久井が初めて口を挟んだ。

「なんぼ仕事好き言うたかて、今月一日も休んでないなんて異常やで。もっと身体大事にしなあかんよ」

 須藤は和久井にも穏やかな視線を向け、

「……和久井君が言うことも最もだ。……朝はちゃんと毎日食べてる?」

「あ、はい。朝ご飯はちゃんと……」

「ならいい」

 言いながら須藤はロレックスを確認した。

「今日の夕食の予定は?」

 あまりに予想外の質問に返事が2歩も3歩も遅れた。

「………………、あっ、ありません……」

「じゃあ、今から行こうか」

「えっ?」

 早々に立ち上がる須藤を見上げて山瀬は口を開いた。

「和久井君も良かったら」

 須藤は若干複雑な表情をしていた和久井の顔を見て、きちんと誘う。

 弁当を既に用意していたらしい和久井だが、その言葉を聞くなり口元を緩め、

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 と、何の遠慮もなくすぐに立ち上がった。
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