孤高の貴公子・最高責任者の裏切り
「椎名の要望に応えて寝た」 




 誰も、どこも見なかった。ただ、何も焼いていない火鉢だけがパチパチと音を立てている。

「後は、俺はマネージャーに無事収まり、棟方が新しいサブマネージャーに加わって、椎名も修理代理兼サブマネージャー補佐となる体制になった。ただ違ったのは、椎名の要望がエスカレートしていった事だった」

 2人は、須藤の言葉を唾を飲んで待つ。

「婚姻届を持って来たのはその後すぐだったと思う」

 山瀬は無表情である須藤の横顔をただじっと見つめた。

「さすがにそれには応えられなかった。……俺は」

 須藤が山瀬の目を見た。それと同時に、山瀬も須藤から目をそらさなかった。

「椎名が一旦平に戻った上で、新しくサブマネージャー補佐になれるような女性を探し、それが本当にサブマネージャーになったら。

 結婚してやると約束した」

「…………」

 ショックを受けたように視線を泳がせる山瀬に対して和久井は

「ほな、椎名ゆー子が山瀬を見つけてきたゆーことか?」

「そうだ。もちろん、声をかける前に予め、俺が直接偵察に行っている」

「しかし、どんな約束やねん。山瀬をサブマネージャーにしたら結婚って」

「それで、俺の夢と椎名の夢が叶うのならそれでいいんだよ」

 須藤は静かにビールを口にした。既にぬるくなっただろうが、今は味も感じていないに違いない。

「私が……サブマネージャーになることにかかってるっていうんですか」

 山瀬はテーブルを見つめたまま須藤に問うた。

「…………山瀬を探し出すまでは、平になった椎名も、まだマシなところはあった」

「だから……だから、その、身代わりみたいにさせたから、あんな風になってしまったんじゃないんですか!?」

「そうともとれる」

 和久井は何の言葉も出さない代わりに、これ見よがしに大きなため息を吐いた。

「でも……須藤マネージャーは椎名さんと結婚したいってことなんですか? したくないってことなんですか?」

 目を見ようとした。だけど、こちらを見てはくれない。

「そんなことは……どうでもいい事なんだよ。俺はただ、女性を加えたサブマネージャーで5人体制にすることによって店が理想の形になればそれでいい」

「あー、あほらし」

 須藤の思い詰めた声をかき消すように和久井がぬるい声を上げた。

「そんなんで結婚がうまいこといくはずがない。あんた、自分の人生はどうでもえんか!?」

「そんなことは、どうでもいいんだよ」

 繰り返し、立ち上がろうとした須藤に

「山瀬の顔、見てみぃな。複雑すぎて、今にも泣きそうや」

 山瀬は、少し顔を下げた。

 須藤は足を元に戻すと、その方を向くが何も言葉は出ず。

「真剣に仕事しとるん、山瀬だけかいな」

 その言葉が2人の心にズンと響いた。

 須藤は口を開く。

「椎名は人一倍責任感も強いしプライドも高い。自分が補佐を下ろされた時から、次の補佐を憎んでいたに違いない。だが、それが、俺がその約束を作ることで山瀬を守っていると考えている。これは俺が最初に椎名をサブマネージャー補佐に任命したミスだ。その責任は俺が取る。そういう意味でもある。

 それに、椎名が今の修理センターでいながら、山瀬の邪魔をしていないことが、山瀬にとっては大きく影響している筈だ」

「そんな奴ならさっさと異動でもなんでもさせたらええやろ。マネージャーの権限で」

 和久井は頭をかきながら言う。

「社員の異動はどこにでも有るように見えて、実は相当の理由がないと動いていないんだよ」

「そうとうな理由やろ。それ……」

「修理センターで入力作業のみをきちんとこなしている無遅刻無欠勤、上司の指示にもそれなりに従っている平だ。特に問題はない」

「でもあれ、私服着て来てますよね? そういうのは問題じゃないんですか?」

 山瀬は常々疑問に思っていたことを聞いた。

「倉庫も電話担当は私服でも構わないことになっている。基本的に客や取引先から見えない場所で作業するに当たっては私服でもルール違反ではない」

 そこで須藤は大きく一息つく。

「…………………悪い。

 結婚の話は出すべきではなかった。それは山瀬には何の関係もない」

「でももう聞いたもんはしゃーない。……どうする?」

「…………」

 和久井は俯き、垂れ下がった髪の毛の間から山瀬の顔を覗き見た。

「ん?」

 人差し指で長い髪の毛をよけ、和久井はその奥の瞳を確認した。

「…………、え?」

 山瀬は和久井の目を見た。

「どうする? ゆーてん。明日からもまた残業の休日返上でサブマネージャーを目指すんか。それとも………………」

「え……」

 和久井を見上げて見つめた。

「俺は……もうちっと身体大事にした方がええ思うけどな……」

 言いながら山瀬の髪の毛をさらりとかき上げる。

「……どう……」

 須藤も静かにその言葉を待つように、テーブルを見つめていた。

「分かんないです。私、……がむしゃらで今まで仕事してきたし」

「まあ、そうやなあ。この1か月、苦労したもんな」

「でも、私は別にサブマネージャーになりたいからって仕事をしてきたわけじゃない気がします。なんだか必死すぎてよく分かんないけど。とにかく、やらなきゃならないことをやるだけで」

「…………」

 3人同時に押し黙った。

「ただ今思うのは、須藤マネージャーが結婚が嫌なのに、進んでサブマネージャーになりたいとは思わないし……。椎名さんのことは好きなんですか?」

「ああ……。別に、嫌いなわけではないが」

「それ程度で結婚したって離婚するよ。俺はほんまに好きでも離婚したから分かるけど。そんな曖昧で中途半端でどうでもええような理由だったら絶対長続きせーへんし、お互い傷つくだけや」

「…………」

 須藤はテーブルを見つめたままで何も言わない。

「でも、4年間はどうしてたんですか? 私が今回補佐になったけど、今までは色々女の人がいたんですか?」

「いや」

 須藤は少し顔を上げた。

「椎名が時々候補を持ってきてはいた。特に、最初の方は毎月のようだったが、それも次第に少なくなって……。山瀬のことは突然1年くらい前に見つけてきた。そこからは候補探しはいいと断っていた」

「……なんか、すみません……」

 山瀬は誰にでもなくただ頭を下げた。

「なんでお前が謝んねん」

「だって」

「まあとにかく、椎名と俺のプライベートなことは忘れてくれ。もし、結婚するようなことになれば、俺はきちんと責任をとるつもりで覚悟を決める」

「…………」

 山瀬は須藤を見つめた。須藤も同じように無言で見つめ返してくる。

「それって結局、須藤マネージャーも、椎名さんが好きなんじゃあ……」と、いう一言が頭をよぎったが、口にはしなかった。

「でも、そこまで思ってるんなら……椎名さんの今の状態をどうにかしてあげた方が……」

「余計なお世話や」

 和久井はビールを飲み干し、帰る準備をしている。

 今日の料理は美味しかったはずだし、和久井好みの店だったはずだ。だが彼は、これ以上須藤と同じ空間にはどうしてもいなくないようだった。










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