宮中に咲く二月の花
噂の王太子殿下と姫君
買い出しに出かけた看板娘が市場で聞いた噂話
――急がなくちゃ。
買い物かごを提げて、鈴玉(リンユー)は足早に市場を通り抜ける。ただでさえ込み合うこの時間の市場が、最近はいや増して大勢の人でにぎわっている。
その半分は、冷やかしがてら噂話に興じているのだ。
人ごみに肩を押され足を踏まれながら、流れに沿い包子屋や惣菜屋、軽食屋の並びを抜けて、幌の天蓋に覆われた売り場へと飛び込む。肉や野菜を売る売り子の中に顔なじみを見つけて目で挨拶しながら、頭一つぶんとび出た豚肉屋のおやじの顔に向かって叫ぶ。
「おじさん、煮込み料理用の肉を8斤!」
鈴玉の声に振り向くまでもなく、おやじは笑って手を挙げて合図をしてみせてから、その場に横たわる豚の大きな肉の塊に包丁を振りかざした。周りの客は振り向いて笑いながら囃し立てた。
「働き者の鈴玉には、噂話なんてどうでもよさそうだね」
「健気なこった」
けらけらと笑う声は爽やかだが、中のいくつかには揶揄の色も含まれていることに鈴玉は気づいた。いい気はしないが食ってかかるほど威勢がいいわけではない。半分聞き流しながら、肉屋のおやじの手元を見る。――切った肉塊をその都度秤に乗せている。いつも煮込み用のぶつ切りにしてくれるから、もう少しかかりそうだ。
「噂ってなに?」
西日の角度を見て少しいらいらしながら鈴玉は尋ねた。今日は急な予約客が入ってしまったのだ、いつも以上に急がなければ。食堂がにぎわうまでにまだ時間があるが、ここの所客が多くて食材が足らない。こうして仕事の合間に買い出しに走らされることがたびたびある。
問いに大きくなった笑い声を無視しながら、鈴玉はあたりを見渡す。鶏卵売り場はまだ少し空いている。待つ間に卵を買いに行こうかと考えていると、一人のおかみさんが鈴玉の腕を掴んだ。丸々としたその顔を鈴玉の耳元によせて、声を潜める。周りの人々は何を言っているかもうよくわかっているらしい、聞こえないだろうにうんうんとうなずきながら、隣同士で何事かささやきあい始める。
そうこうしているうちに肉を切り終えた主人が、それを包んで売り台の上に投げ出した。8斤分の代金をこちらも投げるように渡し、買い物かごに肉を詰める。――やはり8斤ともなると、重い。
鈴玉はその他鶏卵やいくつかの野菜を買いながら、今まで興味のなかった周囲の噂話、ささやき声、冗談に耳を傾けてみる。歩みは自然遅くなったが、市場に渦巻く声がほとんど同じ話題であることがよくわかった。
買い物客も屋台の立ち食い客も売り子たちも、口々に春先の式典のことを繰り返していた。それは公に顔を晒して以来日は浅くとも何かと話題に上りがち――特に若い娘たちに――であった若君が、先だっての式典の終わりに女を傍らに従えていたのだという。それだけでは王族としてごく自然なことであったろうが、この若君は公に姿を表すようになってから7年間もの間そのようなことは無く、さらにその女は素性も名も、まして容貌さえも明らかではないのである。薄紅に染めた絹の薄衣を頭から被り顔を隠し、ただ若君に寄り添うように立っていたというその女は、愛妾であるのか妃候補であるのか、それともただの戯れであるのかさえわからなかった。もとより噂の中心であった若君である。噂が噂を呼び、今や大抒情詩が出来上がらんばかりである。
蓋し聞くに、その女人は北方の山々を超えたところにある、貧しくも自然豊かな美しい国で、緑に囲まれた王女はつつましくも穏やかな生活を送っていた。
しかし、近頃勢力を伸ばしつつある真の国に攻め入られ、家族や国民、住処と美しい自然を失いながらも命からがら逃げ延びてきた。
最後の従者が息絶え、山中をさまよっていたところ、狩りに出ていた我が国の若君に運よく拾われ、王女は若君に一生尽くすことを誓う。一方若君は、薄汚れ疲れ果ててもなお美しさを損なわない王女に心を奪われ、妃として迎えることを決めたのである。
――と、そこに王女の悲しい過去が絡んだり、二人の思いがすれ違ったり、真国の横やりが入ったりと様々な要素はあったものの、大筋はこのようなところである。
鈴玉は、屋台や出店から立ち上る甘辛い湯気や揚げ物の香ばしい香り、麺をすする人や包子をほおばる子ども、湯気、熱気、砂糖や唐辛子の匂い、山盛りの丸焼き肉や野菜炒めの間を通り抜けながら、今日ばかりはそのどれにも惹かれることなく帰路を急いだ。途中、菓子屋のおかみさんや雲吞屋の主人が声をかけたが、それすらも耳に入らず、噂話に耳を傾けた時間を取り戻すように走った。その頭の中には、抒情詩が細かな描写をもって映し出されたまま。
買い物かごを提げて、鈴玉(リンユー)は足早に市場を通り抜ける。ただでさえ込み合うこの時間の市場が、最近はいや増して大勢の人でにぎわっている。
その半分は、冷やかしがてら噂話に興じているのだ。
人ごみに肩を押され足を踏まれながら、流れに沿い包子屋や惣菜屋、軽食屋の並びを抜けて、幌の天蓋に覆われた売り場へと飛び込む。肉や野菜を売る売り子の中に顔なじみを見つけて目で挨拶しながら、頭一つぶんとび出た豚肉屋のおやじの顔に向かって叫ぶ。
「おじさん、煮込み料理用の肉を8斤!」
鈴玉の声に振り向くまでもなく、おやじは笑って手を挙げて合図をしてみせてから、その場に横たわる豚の大きな肉の塊に包丁を振りかざした。周りの客は振り向いて笑いながら囃し立てた。
「働き者の鈴玉には、噂話なんてどうでもよさそうだね」
「健気なこった」
けらけらと笑う声は爽やかだが、中のいくつかには揶揄の色も含まれていることに鈴玉は気づいた。いい気はしないが食ってかかるほど威勢がいいわけではない。半分聞き流しながら、肉屋のおやじの手元を見る。――切った肉塊をその都度秤に乗せている。いつも煮込み用のぶつ切りにしてくれるから、もう少しかかりそうだ。
「噂ってなに?」
西日の角度を見て少しいらいらしながら鈴玉は尋ねた。今日は急な予約客が入ってしまったのだ、いつも以上に急がなければ。食堂がにぎわうまでにまだ時間があるが、ここの所客が多くて食材が足らない。こうして仕事の合間に買い出しに走らされることがたびたびある。
問いに大きくなった笑い声を無視しながら、鈴玉はあたりを見渡す。鶏卵売り場はまだ少し空いている。待つ間に卵を買いに行こうかと考えていると、一人のおかみさんが鈴玉の腕を掴んだ。丸々としたその顔を鈴玉の耳元によせて、声を潜める。周りの人々は何を言っているかもうよくわかっているらしい、聞こえないだろうにうんうんとうなずきながら、隣同士で何事かささやきあい始める。
そうこうしているうちに肉を切り終えた主人が、それを包んで売り台の上に投げ出した。8斤分の代金をこちらも投げるように渡し、買い物かごに肉を詰める。――やはり8斤ともなると、重い。
鈴玉はその他鶏卵やいくつかの野菜を買いながら、今まで興味のなかった周囲の噂話、ささやき声、冗談に耳を傾けてみる。歩みは自然遅くなったが、市場に渦巻く声がほとんど同じ話題であることがよくわかった。
買い物客も屋台の立ち食い客も売り子たちも、口々に春先の式典のことを繰り返していた。それは公に顔を晒して以来日は浅くとも何かと話題に上りがち――特に若い娘たちに――であった若君が、先だっての式典の終わりに女を傍らに従えていたのだという。それだけでは王族としてごく自然なことであったろうが、この若君は公に姿を表すようになってから7年間もの間そのようなことは無く、さらにその女は素性も名も、まして容貌さえも明らかではないのである。薄紅に染めた絹の薄衣を頭から被り顔を隠し、ただ若君に寄り添うように立っていたというその女は、愛妾であるのか妃候補であるのか、それともただの戯れであるのかさえわからなかった。もとより噂の中心であった若君である。噂が噂を呼び、今や大抒情詩が出来上がらんばかりである。
蓋し聞くに、その女人は北方の山々を超えたところにある、貧しくも自然豊かな美しい国で、緑に囲まれた王女はつつましくも穏やかな生活を送っていた。
しかし、近頃勢力を伸ばしつつある真の国に攻め入られ、家族や国民、住処と美しい自然を失いながらも命からがら逃げ延びてきた。
最後の従者が息絶え、山中をさまよっていたところ、狩りに出ていた我が国の若君に運よく拾われ、王女は若君に一生尽くすことを誓う。一方若君は、薄汚れ疲れ果ててもなお美しさを損なわない王女に心を奪われ、妃として迎えることを決めたのである。
――と、そこに王女の悲しい過去が絡んだり、二人の思いがすれ違ったり、真国の横やりが入ったりと様々な要素はあったものの、大筋はこのようなところである。
鈴玉は、屋台や出店から立ち上る甘辛い湯気や揚げ物の香ばしい香り、麺をすする人や包子をほおばる子ども、湯気、熱気、砂糖や唐辛子の匂い、山盛りの丸焼き肉や野菜炒めの間を通り抜けながら、今日ばかりはそのどれにも惹かれることなく帰路を急いだ。途中、菓子屋のおかみさんや雲吞屋の主人が声をかけたが、それすらも耳に入らず、噂話に耳を傾けた時間を取り戻すように走った。その頭の中には、抒情詩が細かな描写をもって映し出されたまま。