バンビの誘惑
春はあけぼの
「本当にいいんですか?」
「はい」
「旦那さんは知ってるんですか?」
「いや、もうイラッときたからいいかなと思って」
「じゃあ、やっちゃいましょう」
あはは、と笑って私の長い髪に触れる。
梳かすように、撫でるように指を入れて、鏡越しに目を合わせてから、櫛とハサミを取り出した。
そして、首の向こう側でサクサクっと音がした。
水曜の午前中。
私は美容院に来ていた。
大雨だからなのか、今日はずいぶん空いている。
今、私の髪を切っているのが、私の担当の矢崎さん。
ショートカットの小柄でさっぱりした感じの女性だ。
結婚してからだから、もう3年くらい担当してもらっている。
「これでもう、後戻りはできませんよ」
言葉とは裏腹に、少し楽しそうに言う。
今度は私があはは、と笑って返した。
髪をこんなに切るのは久しぶりだ。
夫が長い髪が好きで、「切ろうかな」と言うと必ず嫌がるものだから、結婚直後に一度切ってからは、ずっと毛先をととのえるだけにしていた。
結婚直後に切ったのだって、髪の傷みがひどくてどうにもならなくなったせいだったから、切りたくて切ったのは、婚約して以降初めてだ。
半年前にも、「このくらいの長さにしたいな」と花野香菜ちゃんの写真を見せてみたのだけれど、「短くない?」と言われ、「可愛くない?」と聞いても「いや、まったく」と返されたところだ。
ちなみに、花野香菜ちゃんとは、大人気の女性声優さんだ。鎖骨にかかるくらいのふんわりしたボブがすごく可愛くて、私はここ半年くらい「花野香菜ちゃんみたいにしたい」と思っていた。
もっとも、最新の花野香菜ちゃんの写真はセミロングのゆるふわパーマになっていて、ちっとも「花野香菜ちゃんみたいに」ではないのだけれど。
サクサクという小気味良い音とともに、少しずつ頭が軽くなっていく。
ギリギリひとつに結べるくらいの、ボブとミディアムのちょうど中間くらい。
去年あてたストレートパーマがまだ残っているのか、たいしたうねりもなく、肩にさらさらとこぼれている。
(あー……、これだとはねるかなぁ?)
なんて思ったりもするけれど、このままずっと短い髪をキープする予定もないし、ストレートパーマをあてなおすと、今度はまたパーマがかからなくなるので困る。
ストレートパーマがかかりやすくて、パーマはかかりにくい髪質なのは昔からだ。
「このくらいですかね~」
矢崎さんが、明るい口調で言う。
思っていたよりも少し短いけれど、悪くない。
「そうですね」
「少し巻きましょうか」
私が「お願いします」と言い終わらないうちに、矢崎さんはもう、アイロンとスプレーワックスへと手を伸ばしている。優秀な担当さんだな、と思う。
「あれ? 種島さん髪切ったんですか?」
と、担当でない美容師さんが声を掛けてきた。
名前は覚えていない。
正直なところ、人の名前を覚えるのは得意ではない。
というか、極端に固有名詞を覚えるのが苦手で、そのために大学院での研究を諦めたくらいだ。
研究の内容に興味があっても、誰の論文なのかには興味が持てないし、理論の名前も覚えられない。学会のレセプションパーティーなどは、論文内容と顔と名前がうまくリンクできなくて非常に困った。
「そうなんですよ~、切っちゃいました」
「旦那さん知らないんですって」
「えー、そうなんですか? 楽しみですね」
「いや、たぶん機嫌悪いですよ。あの人は長い髪好きなんで」
努めて明るく答えながら、機嫌の悪い夫を想像してみる。
少しだけ胃が痛い。
胸はそんなに痛まないあたり、夫に対する情は限りなく薄くなっているのだろうと思う。
(美容院予約の二日前に怒らせるのが悪いのよ)
心の中で、自業自得よ、とつぶやく。
文句があるのなら、今度はシャンプー代とトリートメント代とヘッドスパ代を負担してもらおうと思う。
二十代の頃なら、シャンプーなんてドラッグストアの詰め替えで十分だったけれど、三十代の今は違う。抜け毛やら薄毛やらが気になり始めて、今では一本六千円もするシャンプーを使っているのだ。抜け毛の量や、前髪との分け目の目立ち方が全然違う。
そして、髪の長さとシャンプーの量は比例するのだ。
夫が今後ロングヘアを望むのならば、相応の金銭的負担くらいはしてもらうべきだ。
「うあ〜、かわいい!」
と、他の美容師さんも来て、声をかけてくれる。
美容師さんという職業は、いったいどれだけの人の顔を覚えておかなければならないのだろうと思う。
私には到底できない仕事だ。
結局、美容室を出るまで美容師さんみんなに声をかけられて、なんだかちょっとした注目の的になっていた。
長い髪を切るたびに思うけれど、長い髪を切るというのは、そんなに大事件なのだろうか。
そういえば、昔は髪を切ると「失恋した?」とよく訊ねられていた。
平安時代をモチーフにした物語には、失恋から髪を切って尼になる、なんて話がよく出てくるけれど、ああいうところから来ているものなのだろうか。とすれば、「失恋して髪を切る」というのは、日本独自の文化であるということになるのだろうか。
ともあれ、美容室での評価がまずまずで、いくらか安堵して外に出る。
外は相変わらずの強い雨で、もう少し大きめの傘にしてもよかったかなと思うくらいだった。
田舎では傘はあまり必要ない。
いや、私には必要なのだけれど、一般にはあまり使う機会がない、というのが正しい。私は様々な意味で「逸般人」なのだ。
田舎の一般人は、基本的に車で移動する。
公共交通機関が発達していないから自家用車を持つのか、自家用車を持つ人が多いから公共交通機関が廃れるのかはわからないが、とにかく交通の便が悪いからだ。
車に乗ると、傘はほとんど要らない。
駐車場の少しの距離なら、傘をさすより濡れて歩く人の方が多い。
そして、都会なら歩くくらいの距離も、みんな車で移動する。
結果、傘を必要とする機会は少ないのだ。
おかげで、私のお気に入りの傘は、だいたい旅行先で買ったものだった。
需要が少ないから、供給も少ない。
田舎でお気に入りの傘に出会えたのは、これまでの生涯でたった一度きりだ。
「帰りたいな」
声にしてから、周囲を見回す。
当然のように、歩行者はいない。
車が、水を跳ね上げながら走っていくだけだ。
田舎は好きではない。
まず、デブが多い。
中高生はそうでもないけれど、代わりに脚が太い。
なぜって、基本車社会で歩かないからだ。
中高生は自転車で動くからデブは減るけれど、その分脚は太い。
小学生も、親が車でどこへでも連れて行くから、肥満率が高いと私は思う。
デブは嫌いだ。
美しくない。
見た目にも見苦しいけれど、心も見苦しいことが多い。
ひがみや妬みが多くて、自分に自信もない。
そのくせ、意志が弱くて、自己管理ができない。
デブの全員がそうだとは言わないし、実際デブだけどすごく可愛い友人もいるけれど、そういう子のほうが例外だと、私は思う。
「はい」
「旦那さんは知ってるんですか?」
「いや、もうイラッときたからいいかなと思って」
「じゃあ、やっちゃいましょう」
あはは、と笑って私の長い髪に触れる。
梳かすように、撫でるように指を入れて、鏡越しに目を合わせてから、櫛とハサミを取り出した。
そして、首の向こう側でサクサクっと音がした。
水曜の午前中。
私は美容院に来ていた。
大雨だからなのか、今日はずいぶん空いている。
今、私の髪を切っているのが、私の担当の矢崎さん。
ショートカットの小柄でさっぱりした感じの女性だ。
結婚してからだから、もう3年くらい担当してもらっている。
「これでもう、後戻りはできませんよ」
言葉とは裏腹に、少し楽しそうに言う。
今度は私があはは、と笑って返した。
髪をこんなに切るのは久しぶりだ。
夫が長い髪が好きで、「切ろうかな」と言うと必ず嫌がるものだから、結婚直後に一度切ってからは、ずっと毛先をととのえるだけにしていた。
結婚直後に切ったのだって、髪の傷みがひどくてどうにもならなくなったせいだったから、切りたくて切ったのは、婚約して以降初めてだ。
半年前にも、「このくらいの長さにしたいな」と花野香菜ちゃんの写真を見せてみたのだけれど、「短くない?」と言われ、「可愛くない?」と聞いても「いや、まったく」と返されたところだ。
ちなみに、花野香菜ちゃんとは、大人気の女性声優さんだ。鎖骨にかかるくらいのふんわりしたボブがすごく可愛くて、私はここ半年くらい「花野香菜ちゃんみたいにしたい」と思っていた。
もっとも、最新の花野香菜ちゃんの写真はセミロングのゆるふわパーマになっていて、ちっとも「花野香菜ちゃんみたいに」ではないのだけれど。
サクサクという小気味良い音とともに、少しずつ頭が軽くなっていく。
ギリギリひとつに結べるくらいの、ボブとミディアムのちょうど中間くらい。
去年あてたストレートパーマがまだ残っているのか、たいしたうねりもなく、肩にさらさらとこぼれている。
(あー……、これだとはねるかなぁ?)
なんて思ったりもするけれど、このままずっと短い髪をキープする予定もないし、ストレートパーマをあてなおすと、今度はまたパーマがかからなくなるので困る。
ストレートパーマがかかりやすくて、パーマはかかりにくい髪質なのは昔からだ。
「このくらいですかね~」
矢崎さんが、明るい口調で言う。
思っていたよりも少し短いけれど、悪くない。
「そうですね」
「少し巻きましょうか」
私が「お願いします」と言い終わらないうちに、矢崎さんはもう、アイロンとスプレーワックスへと手を伸ばしている。優秀な担当さんだな、と思う。
「あれ? 種島さん髪切ったんですか?」
と、担当でない美容師さんが声を掛けてきた。
名前は覚えていない。
正直なところ、人の名前を覚えるのは得意ではない。
というか、極端に固有名詞を覚えるのが苦手で、そのために大学院での研究を諦めたくらいだ。
研究の内容に興味があっても、誰の論文なのかには興味が持てないし、理論の名前も覚えられない。学会のレセプションパーティーなどは、論文内容と顔と名前がうまくリンクできなくて非常に困った。
「そうなんですよ~、切っちゃいました」
「旦那さん知らないんですって」
「えー、そうなんですか? 楽しみですね」
「いや、たぶん機嫌悪いですよ。あの人は長い髪好きなんで」
努めて明るく答えながら、機嫌の悪い夫を想像してみる。
少しだけ胃が痛い。
胸はそんなに痛まないあたり、夫に対する情は限りなく薄くなっているのだろうと思う。
(美容院予約の二日前に怒らせるのが悪いのよ)
心の中で、自業自得よ、とつぶやく。
文句があるのなら、今度はシャンプー代とトリートメント代とヘッドスパ代を負担してもらおうと思う。
二十代の頃なら、シャンプーなんてドラッグストアの詰め替えで十分だったけれど、三十代の今は違う。抜け毛やら薄毛やらが気になり始めて、今では一本六千円もするシャンプーを使っているのだ。抜け毛の量や、前髪との分け目の目立ち方が全然違う。
そして、髪の長さとシャンプーの量は比例するのだ。
夫が今後ロングヘアを望むのならば、相応の金銭的負担くらいはしてもらうべきだ。
「うあ〜、かわいい!」
と、他の美容師さんも来て、声をかけてくれる。
美容師さんという職業は、いったいどれだけの人の顔を覚えておかなければならないのだろうと思う。
私には到底できない仕事だ。
結局、美容室を出るまで美容師さんみんなに声をかけられて、なんだかちょっとした注目の的になっていた。
長い髪を切るたびに思うけれど、長い髪を切るというのは、そんなに大事件なのだろうか。
そういえば、昔は髪を切ると「失恋した?」とよく訊ねられていた。
平安時代をモチーフにした物語には、失恋から髪を切って尼になる、なんて話がよく出てくるけれど、ああいうところから来ているものなのだろうか。とすれば、「失恋して髪を切る」というのは、日本独自の文化であるということになるのだろうか。
ともあれ、美容室での評価がまずまずで、いくらか安堵して外に出る。
外は相変わらずの強い雨で、もう少し大きめの傘にしてもよかったかなと思うくらいだった。
田舎では傘はあまり必要ない。
いや、私には必要なのだけれど、一般にはあまり使う機会がない、というのが正しい。私は様々な意味で「逸般人」なのだ。
田舎の一般人は、基本的に車で移動する。
公共交通機関が発達していないから自家用車を持つのか、自家用車を持つ人が多いから公共交通機関が廃れるのかはわからないが、とにかく交通の便が悪いからだ。
車に乗ると、傘はほとんど要らない。
駐車場の少しの距離なら、傘をさすより濡れて歩く人の方が多い。
そして、都会なら歩くくらいの距離も、みんな車で移動する。
結果、傘を必要とする機会は少ないのだ。
おかげで、私のお気に入りの傘は、だいたい旅行先で買ったものだった。
需要が少ないから、供給も少ない。
田舎でお気に入りの傘に出会えたのは、これまでの生涯でたった一度きりだ。
「帰りたいな」
声にしてから、周囲を見回す。
当然のように、歩行者はいない。
車が、水を跳ね上げながら走っていくだけだ。
田舎は好きではない。
まず、デブが多い。
中高生はそうでもないけれど、代わりに脚が太い。
なぜって、基本車社会で歩かないからだ。
中高生は自転車で動くからデブは減るけれど、その分脚は太い。
小学生も、親が車でどこへでも連れて行くから、肥満率が高いと私は思う。
デブは嫌いだ。
美しくない。
見た目にも見苦しいけれど、心も見苦しいことが多い。
ひがみや妬みが多くて、自分に自信もない。
そのくせ、意志が弱くて、自己管理ができない。
デブの全員がそうだとは言わないし、実際デブだけどすごく可愛い友人もいるけれど、そういう子のほうが例外だと、私は思う。