恋の捜査をはじめましょう
取りあえず、今夜ヤツがベッドの上で眠れぬ夜を過ごすことは…間違えはないだろう。
明日の朝、どんな顔して署にやって来るのかは…見物ではあるけれど。そんな想像をして、ニヤニヤと廊下を闊歩するほど…俺は呑気な奴でもない。
言葉通りの、幽霊……いや、見えない敵と対峙する日は。
きっと、そう。もうすぐそこまで…来ているだろうから。
俺は、ある扉の前で…ピタリと足を止めると。コンコン、と小気味よいリズムでノックした。
軋む音が…廊下に響いて、視界が…開かれていく。
こちらに背を向けたまま、「どうぞ。」と入室を促す声。
狭い部屋を、ますます狭く感じさせる…その風貌。おっとりとした佇まい。それから発される声は、いつもの心地よさを感じさせるバリトンボイスともまた違って、ずっしりと…その存在を、その重責を、改めて知らしめるような…低く、いやに低い、声であった。
その人……、米山一課長が、ゆっくりとこちらへと振り返る。
「……誰か。うん、いつか誰かが…ここに辿りつくのではないかと思っていたよ。……君は―…」
「〇〇署刑事第1課の柏木と申します。」
「ああ、『柏木晴柊』君だね。…高橋君から、君の功績は聞いているよ。しかし、君のような一介の刑事が…、ね。そこは流石に予想はしていなかったな。」
「お忙しい所、時間をとっていただき…申し訳ありません。」
「現場に出ている君ら捜査員の比ではない。それで、聞きたいこととは…?」
おそらく…もう悟っているのであろう一課長の瞳は、うろたえることもなく、勿論、身構えることもなく。
恰幅のよい、その風貌通りの…おおらかさは、まだ健在だった。
「我々捜査員は今、根詰めて捜査にあたっています。」
「………。」
「失礼は承知の上で、確認したいことがあります。藤橋主任より既にお聞き及びかもしれませんが……。」
「……誰かが、そう申し出なければ。行動に移さなければ、解決できた筈の事案も、暗礁に乗り上げてしまう。…侮れないものだ。」
「………。」
「数年前に…そういう男に出会った。…ギラギラした瞳で、正義感溢れる…真面目な男だ。」
「それは…」
「私が警務部監察官室に従事していた時だ。たった1年の任期だったが、俺はその男を…見殺しにしてしまった。警察が正義であるのか…?以来俺はずっと、自問自答を繰り返している。」
「……一課長。その人は…『彼』の直属の部下であったと聞いています。」
「………。」
「今、我々が相手をしているのは…その亡き人物の、亡霊でしょうか?」
「………。」
「いいえ、最悪な重罪を犯した…犯罪者です。それ以上でも、以下でもありません。私達は、見えないホシと戦っている訳ではない。」
「ああ、そうだ。」
「犯人と思わしき人物は…、自身でこれまでの犯行をほのめかす発言をする一方で、全てにおいて、犯行手口を変え…犯行時刻もずらしてきています。それらは、同一犯であろうことを、我々警察が断定しづらい状況を敢えて作り出しているかのようにも…思えます。ひとつひとつの事件の背景に…見えて来るものは何でしょうか?どこかに共通する点や、繋がるものは?」
「…………。」
「目をつける所は、まず1つは…犯人の強い自己顕示欲。それからもう1つは、私達警察に対する挑発。これで、勘づかない者は、果たしているのでしょうか?犯人の心理、犯行の…動機。それらを無視した所で、捜査は足踏みになるだけです。我々所轄の人間は確かに組織として動いています。上の判断を仰がなければ、二の足踏んで…進めるべきことも、進めることが、出来ません。それは、現場を多く踏んできた一課長なら…よくご存知でしょう。ある一定の信念、それから…信用があってこそ成り立つ大きな組織でもあります。ただ、その根底が…どこか1つでも崩れていたら?誰かが不信感を抱いていたら?……組織である以前に、一人ひとり感情を持った人間でもあります、それを束ねることが、乱さぬことが、如何に困難であるかは…重々承知しています。ですが、先程一課長が仰ったように…、正義とは何か。組織としての平安を保つこと、警察そのものが…それであると、言い切れますか?」
「…………。」
「警察に対する強い『怨恨』。少なくとも、今回の事件の裏側には…それが見え隠れしていると私は思っています。お察しでしょうが…、数年前に、ある警察官が懲戒免職処分を受けた件について、お尋ねします。一課長は、当時監察官として、彼らについて…、十分な調査を行っていたのでしょうか?」
一課長の幅のある撫で肩が、更にがくりと落ちるような、そんな瞬間を…垣間見たような気がした。