HとSの本 〜彼と彼女の夢〜
 麗らかな木陰。
 鳥たちが奏でる懐古曲。
 暖かい空気に溶かされて、二人はぼんやりと転がっていた。

 食事を終えた昼休み。
 二人はのんびりしていた。
 これから行う体育の授業も、
 やっと終えた世界史の授業も、
 世は事もなしと伸びている。
「のどかだなあ」
 隣の少女に語り掛けたのか、それともただの独白か、虚ろな瞳はやがて目蓋に閉ざされていく。
「のどかですねえ」
 返事かそれとも独り言か、少女は木にもたれ掛かって、猫みたいに大きく欠伸する。
 風が運ぶ春の足音。
 春眠暁をなんとやら。
 午後に差し掛かる程よい気温と、彼らが互いに用意した昼食で、満たされた気持ちが揺り籠となって二人を揺らす。

 心地よい時間/空間。
 優しい気温/隣人。
 瞬く春風/春香。
 だが、平和だとは口にも出さない。
 そこは平和ではないと、断言してしまう過去を、共有できない痛みを、深く刻まれた悲しみを、やるせない不条理を、幾度も体験した二人だから。

 平和なんてない。
 いつか崩れてしまう、
 いつか自分で崩してしまう、
 そんな平和はいらない。



 そもそも、
  そんな道とは遠いものを
   二人はそれぞれ抱いている。



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