HとSの本 〜彼と彼女の夢〜
「のどかですねえ」
 信じられない言葉だった。そんなものは無縁だと、信じ込んでいたのに。
 差し出された手は、
 転がってきた出会いは、
 父と母の物語みたいで。



 叩かれ、なぶられ、嫌われ、貶され、まわりは敵で味方は皆無で他人は観客で、悲劇のヒロインみたいだと母は笑った。
 笑える、過去にしていた。

 優しく触れた、手があった。

 暖かく触れる、手があった。

 ただそれだけの出来事が、宝石のように綺麗な思い出だった。
 夢物語みたいな過去、
 夢物語みたいなお話、
 夢物語みたいな笑顔、

 そんな『夢』を聞いて。
 穢れる前だった『わたし』は

 憧れずには、いられなかった。

 手を差し出した天使。
 手を握り返した天使。

 誰かに優しくなれる人。
 誰かに優しくされる人。

 そして、助けられた分だけ
 優しく手を伸ばせる天使。

 そんな、両親みたいな天使に
 なりたかった過去がある。



 誰も信じないで、
 誰にも触れられないように、
 昔の母より無関心に。

 そう生きていたわたしに、
『ともだち』になってくれた人。



 もう一度だけ、
  信じてみたくなった。

『母さんみたいな天使に』

 わたしはなりたかった。


 それを『夢』だなんて
 呼べるわけはないけど。



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