曖昧な関係の境界線
家で着替えて出直しても始業時間まで余裕があった。
会社のエレベーターを降りると、すぐ目の前の曇りガラスのドアが開いた。佐伯先輩がマグカップを乗せたトレーを持って出てきた。そうして俺と目が合い先輩は息を呑んだ。
「おはようございます」
俺はごく普通に挨拶をしたが「おはっ……おはよう……」とどもり、慌てて俺から目を逸らす。つい数時間前まで身体を繋げていたのに、この態度から甘い雰囲気は微塵も感じない。
「どうしたの先輩、出社してきたのが金城さんじゃなくて残念?」
「っ……」
先輩の顔が引きつる。そんな顔をされたら、もっと意地悪したくなるじゃないか。
「金城さんのだけじゃなくて、俺もコーヒーが飲みたいですね」
金城さんのもの以外にも複数マグカップをトレーに載せていたが、『金城さんの』を強調した俺の言い方に先輩は気まずそうな顔をした。
「長谷川くんの分も淹れるから……」
「是非お願いします」
わざとらしい笑顔を向けると、先輩は目を伏せ逃げるように給湯室に入っていった。
入社当時から俺は佐伯先輩が好きだった。
整った顔に見惚れたのはもちろん、仕事に対する姿勢が他の社員とは違った。責任ある仕事を任され、それを鼻にかけることもなく誰にでも平等に接する。そんな佐伯先輩に新人の俺は惹かれないわけがなかった。