晴れ時々毒舌裏バージョン
富山隊
僕が、親父の会社に入るきっかけは親父の会社に居た常務で親戚のおじさんが、同じ仕事してるなら会社に来いよでした。
その人が関西まで来て焼肉食べながら延々といいことしか言わないの。会社に入ったらこうでこうみたいなね。
詐欺ですよ笑まあ、それで入って一度九州に戻り直ぐ富山でした。
富山県は、親父が会社始めた場所でその親戚のおじさんが現場を幾つか持ってて富山支店のようになってたんです。
車の免許を持たないので免許を取りに行きながら最初は立山の下の方でセメントを積む楽な仕事してましたが、免許を取ったら立山の奥に入れになってね。
山暮らしです。二週間に一度二日の休みがあって降りる以外は宿舎に缶詰めでした。
仕事の内容はそれほどきつくはなかったけど、慣れない事務をやるのと四十人ほどの男が二週間も同じ所に住むって大変でしたね。
四月に上がって雪が降る前に降りるから約半年かな。その間に二十代はどんどん居なくなりました。
そりゃ、たまらないですよ。外の世界と遮断されるしテレビは1台衛星放送が映るだけですからね。
10人は居たかなが、終わる頃には二十代二人です。
まあ、だけど、立山の仕事がある時は良いんです。ある意味慣れますからね。
仕事も砂防ダムですからパターンも分かるしトンネルほどのきつさは無くてね。
立山の仕事が終わるとそこの所長と十五人から少ないときで八人くらいであちこちです。
富山の常務が見つけて来た仕事を早いときで二週間とかで終わらせて次に行くんです。
それと会社の本隊がやったトンネルの後始末をするとかね。
本社では富山隊とか言われてましたが、このグループはトンネルでは二流の人が集まり北陸から関東までを富山の常務の命令で動いてました。
どんな仕事でもやったけど泊まるのは安い民宿とかです。
そういう場所を転々とするのはきつかったですね。
土地が変わるし泊まる場所も変わるし仕事も変わるしで寒い中で転々とするのは惨めな気分もありました。
中でも新潟のトンネルの後始末に行った時はきつくてね。仕事もです。
もう少し掘らないといけないらしくて一キロ近くをダイナマイト込める為の削岩機を毎回二人で持っていくんです。
何故中に置かないのか当時は全くわからないし、今でも謎ですが削岩機を若い僕と同い年の作業員がたまたまいて持っていくんですが、これが重いんです。
十五キロは軽く越えてます。それを肩に担いで一キロ歩くとそりゃたまらないです。
二十代はそこでは僕とその作業員だけであとは四十代五十代です。
二人で文句言いながら担いでました。
孔を空けてダイナマイト込めるのは単純でね。
トンネルが小さいからね。
作業終わるとまた、その作業員と削岩機を持って出るんですが疲れてるから更に重くてですね。
富山隊はいつも貧乏くじ引いてるような集団でしたね。