でも、好きなんです。
「ごめん、帰り際に急に部長に呼ばれてさ。」

そう言いながら課長はコートを脱いで壁のハンガーにかけると、私の隣に座った。

課長が予約していた席は、明らかにカップル用の個室だった。

L字型のソファに隣り合わせで座っていると、緊張で体がこわばった。

課長がこんな席を予約したことは、いい予兆なのか、悪い予兆なのか、考えてもわからないことだらけだった。

「なにか頼んだ?」

「いえ、まだです。」

私がそう答えると、課長はメニューを開いて、料理を4品とビールを注文した。

「河本さんは?」

「私は・・・ミモザで。」

店員がいなくなると、課長は、ふう、と小さなため息をついた。

「ごめん、急に呼び出したりして。」

「いえ・・・。」

いえ、嬉しかったです、と言いたかった。本当は。

だけど、言えなかった。

これから課長にどんなことを言われるのかと考えると、めったなことは言えない気がした。

窪田さんに告白されたり、可愛いと言われたりして、少し自信を持ち始めていた私だったけれど、結局自信のない以前の自分に戻ってしまっている。

「どうしても、話しておきたくて・・・。」

課長が、視線をテーブルの上に落として言った。

課長の手は軽く組まれたまま、白いテーブルの上に置かれている。

綺麗な指。

その指に、指輪はない。

黙ったまま、その長い指を見つめていた。

なにか言おうと口を開きかけたそのとき、店員が飲み物を運んできた。

課長が華奢なグラスに入ったミモザを手渡してくれる。

少しだけ、指が触れた。

それだけで、ドキドキする。

店員が再び姿を消した後で、私たちは、控えめに形ばかりの乾杯をした。

お酒が早く来てくれてよかった。

お酒に頼らなければ、うまく自分を保つことができそうにない。

私は、どんどん駄目な大人になっていっている気がする。
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