さくら駆ける夏
 到着した場所は、何の変哲もないアパートだった。
 車から降りると、本間さんは外にある階段をのぼっていくので、私もついていった。
 気がかりだったのは、涼君のことだ。
 涼君、大丈夫かな……。

「さくらちゃんをどうする気だ!」
「さくらちゃんを放せ!」
 あの時、言ってくれた言葉が耳にこだましている。
 なんだか、涙が出そう。

 しかし、どういう心境の変化だろう……。
 なぜ、私はこんなに、本間さんに従順になっているのだろう。
 ここから先、本間さんが豹変して、私に危害を加えてもおかしくない状況だといえるかもしれないし、普段の私なら人一倍、警戒してもおかしくないのに。
 自信はないんだけど、なぜだか心の中で「そんな危ないことにはならない」と思っている自分がいた。
 何の根拠もないんだけど。
 
 ただ、胡桃さんの名前を知っているということからも、本間さんが何か情報を私にくれそうな気はしたし、その情報をのどから手が出るほど欲しいと私は思っていた。
 なので、黙って本間さんについて歩いていく。



 連れてこられた一室は、何の変哲もない、ごく普通の部屋だった。
 ただし、キッチンはサビ一つない綺麗さだし、家具もほとんど置かれてないし、生活感はあまり感じられない。
 本間さんは、ここで暮らしているのだろうか。

 さっき工作……じゃなく、計画のことを聞いたとき、「札束」と連呼してたので、相当なお金持ちだと想像していたんだけど、少し意外だった。
 それほどのお金持ちなら、仮の住まいだとしても、もっと良いところを確保しそうなものだし。

「殺風景な部屋で、すまないね。仕事柄、あまり目立つところには住めないもんで。そんなことはともかく、二時間以内と約束しちまったからね、時間がない。さぁ、早速本題に移ろう。……と、その前に……」
 そう言うと、本間さんは食器棚からコップを二つ取り出すと、台所でよく洗ってから、私の前の机の上に置く。
 それから、今度は冷蔵庫からペットボトルと何やら小さなモノを取ってきた。
 ボトルのラベルを見ると、コーヒーのようだ。
 小さなモノはよく見ると、砂糖やミルクらしい。
 慣れた手つきで、本間さんは私の分も、コップにコーヒーを注いでくれると、「砂糖とミルクはご自由に」と言って、また立ち上がった。
 そして、奥の机のところまで行くと、引き出しから一冊のアルバムを取り出して持ってきて、私の目の前に広げる。
「お前さんに見せたかったもの。それは、これだよ」
 私の呼び方が「君」から「お前さん」に変わったな、と私は気づいたけど、何も言わずにアルバムを覗き込んだ。
 本間さんは手早くページを繰っていく。

「ここ、この写真だ。これがお前さんのお母さんだよ」
 指差された写真を見ると、胡桃さんが一人で写っている写真だった。
 八重桜さんにもらった写真とは違うものだ。
 この写真の胡桃さんは、和風の衣装を着ていて、頭には簪(かんざし)をつけている。
 よく似合っているなぁ……綺麗。
「八重桜さんも、私の母は胡桃さんだと言っていたんですけど……そこに関しては間違いない、ということですか?」
 私は気になっていたことをストレートに聞いてみた。
 八重桜さんも本間さんも、私の父親と名乗り出てくれていて、どちらが正しいのか、はたまたどちらも違うのか、それは分からない……。
 だけど「母親が胡桃さん」ってところに関しては、二人の意見は一致しているとみてもよいのか、そこをはっきりさせたかった。
「この写真を見れば明らかだよ」
 そう言って、ページを繰った本間さんは、一枚の写真を指で示してくれた。

「あっ」
 私も認めざるをえなかった。
 胡桃さんと私が、かなり似ていることを。
 涼君は確か「目と耳が似ている」と言っていたけど、あの時の写真や、ここで先に見た写真ではそんなに似ているとは思わなかった。
 でも、本間さんが見せてくれたこの写真を見ると、似ているということに私も同意せざるを得ない。
 この人が、私の実のお母さんかもしれないんだ……。
 もし本当にそうなら、お母さんが亡くなっていてもう会えないなんて……。
 なんだか泣きそうになってきた。

「はっきり分かっただろ」
 心なしか、本間さんの声が、さっきまでよりも優しい感じに聞こえる。
「はい……えっと」
 私は涙をぐっとこらえた。
「胡桃さんがお母さんかもしれないなっていうことは、私にも飲み込めました」
「まだ完全には信じていないっていうのかぁ、用心深いなぁ。さすがは僕の娘」
 本間さんは、朗らかに笑った。
「でも、お父さんは、本間さんってことで、間違いないんですか?」
「本間? 誰それ? 父親は僕だよ」
「え?」
 私は耳を疑った。
「ああ、悪い悪い。今日は運転手の『本間』として働いていたんだっけ。言ってなかったね、これは僕の数ある偽名の中の一つにすぎず、それも今日初めて使うものだったんだよ。いくらお前さんが僕の娘だからといって、本名を教えるわけにはいかない。お前さんを疑ってのことではないんだ、理解してくれ。胡桃ちゃんにすら教えていなかったぐらいだからね」
「それじゃ、あなたは何者なんですか?」
「大きな仕事をするときは『アントワーヌ・チェリー』と名乗っているよ」
「ええっ!」
 私はびっくりした。
 その名前は新聞やネットのニュースで見たことがある、あの怪盗団の首領の名前だったからだ。
「ははは、やっぱり知っていたか。おっと、ニュースだけを材料にして、僕たちをそのへんのこそ泥と同じようなものだと思ってもらっちゃ困るよ。僕たちのターゲットは、悪事を働いて財を築いた者たちだけだからね」

「でも、本当に、あなたが私の父なのですか?」
 話の流れをやや無視した形になったけど、どうしても気になったので確認してみる。
 びっくりしたのを隠す意味もあった。
 まさか、目の前のこの人が、あのチェリーブロッサムの首領だなんて……にわかには信じがたいよ……。
 でも、車の中で聞いた工作の話といい、この堂々とした態度といい、偽名をたくさん持っていることといい、どうやら本当っぽい気がしてはいたけど。
 私を連れ去ったやり方も、手馴れてた気がするし……。

「この事実を知って、ますます僕を父と認めたくなくなってきたか。予想された、当然のリアクションだね、うん。僕らが親子だということを信じてもらうためには、少し昔話を聞いてもらうことになるんだけど、いいね?」
 私としても異論はなかったので、静かにうなずいた。

「僕と胡桃ちゃんが出会ったのは、今から二十年ほども前のことだ。さっき見てたアルバムに書いてあったし、八重桜からも聞いていると思うけど、胡桃ちゃんは、とある小さな劇団に所属していてね。胡桃ちゃんより少し年上だった僕も、同時期に所属していたんだ。話に直接関係はないんだが、そこで学んだ技術が、今でも大いに役立っているんだよ。僕は仕事柄、元の顔が分からなくなるくらいのメイクアップや変装をしょっちゅう実行しているからね。たとえばこんな風に」
 本間さんはそう言うと、両方のもみあげを引っ張る。
 すると、ベリベリと嫌な音がして、それらが綺麗にはがれてしまった!
 付けヒゲならぬ、付けもみあげだったんだ……。
「なるほどぉ~」
 劇団仕込みの変装術かぁ……さすが怪盗団首領。
 って、何感心してるんだろ、私。
「胡桃ちゃんはあの劇団のマドンナ……というかむしろアイドルのような存在で、僕や八重桜だけでなく、大半の男子団員が彼女に恋してたように思う。でも、そのうちのほとんどが、情けないことに、ただ見ているだけの状態で、八重桜もそのうちの一人だった。まぁ、僕にとっては、恋のライバルが少なくてありがたいことではあったわけだが。僕のライバルは唯一、二階堂という男だけだったが、どうにか胡桃ちゃんは僕を選んでくれて結婚、そしてお前さんが生まれたんだ。結婚当時の写真も持ってきたかったんだけど、僕がしょっちゅう立ち寄っている群馬のアジトに置いてあってね。今回の計画が急すぎたので、持ってくることができなかったんだ。僕たちはまたいつでも会えるし、そのときに見せてもいいね」
 ここで本間さん(この名前が呼びやすいので、このまま)は、私の反応を確かめるかのように言葉を切った。

「その二階堂さんという人は、どの人ですか?」
「ああ、このアルバムにはヤツの写真は一枚もない。八重桜たちも同様だ。このアルバムには主に、胡桃ちゃんと僕、それに当時仲良くしていた数名の団員らの写真しか収めていないんだ。理由は……まぁ察してくれ」
 ライバルの写真だからこのアルバムには入れたくなかった……ということだろう、多分。
 私は続けて聞いた。
「あと……疑ってるわけではないんですが、何か、私があなたの子供であるという、はっきりとした証拠はないんでしょうか? それと、DNA鑑定を受けてみたいんですけど……」
「そう言われると思っていたよ。お前さんも分かってる通り、職業柄、僕はDNA鑑定を受けるわけにはいかない。僕の素性がそこから警察にバレて、捕まりでもしたら、我が怪盗団がおしまいだもんな」
 なぜか本間さんは楽しそうに笑う。
「でも、心配は要らない。DNA鑑定をしなくても、はっきり分かる証拠があるんだ。そうでないと、わざわざこんなところまでお前さんを連れてくる手間はかけんよ」
 DNA鑑定以外の証拠って、そんなにはっきりしたものがあるのだろうか。
 私は、いぶかしがった。

「それはこれだ」
 本間さんはそう言うと、おもむろに左腕を動かした。
 そして、左手で自分の後頭部を触るようなポーズをとる。
 本間さんの顔の横には、彼の左ひじがあった。
 そして本間さんは、右手人差し指を使って、左ひじの少し下の部分を指し示す。
 すぐに私にも、本間さんの言いたいことが理解できた。
 指し示された部分には、漢字の「二」を縦にしたような、特徴的なアザがあったからだ。
「アザですか? それ」
 アザなのか、シミなのかは分からなかったけど。
「うん。両親から聞いたんだが、僕が生まれたときからあるアザらしい。言われないと、なかなか自分では気づかない位置にあるけどね」
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