寡黙な夫が豹変した夜
「いや。違うから。菜摘と話をしたいとは思っていたけれど、見惚れていたって言うのはコイツらの嘘だから」
私に向かって懸命に言い訳をする後藤くんにどういう返事をしたらいいのかわからないでいると、エレベーターはあっと言う間に一階に到着した。
順番にエレベーターから降りると、幹事が二次会会場の案内をしている。
夜の街を家族以外の人たちと歩くのは久しぶりだと思っていると、隣には私と同じ歩幅で足を進める後藤くんの姿があった。
「元気だった?」
「うん。後藤くんも元気そう」
「まあな。でも菜摘、本当に綺麗になったな」
「またぁ。後藤くんたら、お世辞が上手だね」
久しぶりにシャンパンを飲んで美味しいお料理を食べた私は、浮かれ気分で後藤くんの褒め言葉を聞き流した。
でも。
「いや。俺はお世辞なんか言わないよ。今日の菜摘は本当に綺麗だと思う。俺、高校生の時に菜摘に好きだとか可愛いとか、もっと言っておけば良かったよ」
今さら高校時代の出来事を後悔しているようなことを言い出した後藤くんは、二次会会場に進めていた足を止めた。
その後藤くんの表情は暗がりでもわかるほど真剣なもので、ほろ酔い気分もすぐに吹き飛ぶ。
「菜摘。これから二次会なんか行かないで、ふたりきりで飲み直さないか?」
不意に誘われた私が確認したのは、後藤くんの左手の薬指。
そこには、指輪は光っていない。
妻としてではなく、母親としてでもなく。
私をひとりの女として見てくれる後藤くんの視線は、熱くて真っ直ぐだった。