喪失
その夜。

急に、着信があって。

発信者を見ると「明紀」となっている。


出ようかどうしようか迷った。

この状態で出たら、泣いていたのがばれてしまう。



「……明紀?」


「すみれ……」



電話の向こうの明紀の声が、あまりにも弱々しくて。

私は驚いて、涙も止まってしまった。



「どうしたの、明紀。」


「……っ、」



明紀は何も言わずに、静かに泣くばかりだ。



「明紀……」


「……私、バカだっ。」


「え?」


「私、……私ね、……」


「明紀、行くよ。今どこにいるの?」


「病院。」


「……え?」



病院と聞いて、私の中の何かが動く。

苦しい気持ちに、胸が塞がってゆく―――



「明紀、……何で?」


「堕ろしちゃったの。……赤ちゃん、……私と、あの人の、」


「……え、」


「ごめん、引くよね。だから、言えなかったんだ。……結婚してる人と、付き合ってたなんて。」


「明紀……。」



正直、言葉も出なかった。

明紀が、そんなつらい恋をしていただなんて。

しかも、女性にとってかなりの嫌な記憶になるという、堕胎を経験するなんて。



「私、あの人が好きだったの。どんなあの人でも、大好きだったの。……例えずるいあの人でも。私のことを大事にするふりをして、ちゃんと家庭生活を営んでる、そんな人でも、好きだったの……。だけど……、」



明紀が、電話の向こうで泣き崩れている。

どんなに、どんなにつらいだろう。

私のつらさなんて、ちっぽけなものに思えるよ。



「だけど……、赤ちゃんができちゃったの。……そんなつもりなかった。そんなことで、あの人をつなぎとめようなんてこと、考えたこともなかったのに。」



分かってる。

明紀がそんな子じゃないのは、分かってる。

彼女は、大人だけど。

恋をすると、どこまでも一途なんだ。



「ほんとのこと言ったら、彼、すぐに言ったの。一瞬でも悩んでくれたら、私、気が済んだのかも。だけど、すぐに……、『堕ろして。お金は払うから。』って言われたの。……別人みたいだった。あの人、すごく怖い目をしてた。」



明紀の声が震える。

どんなに怖かっただろう。

苦しかっただろう。

悲しかっただろう。


せっかくお腹に宿った、好きな人との命を。

明紀が奪いたいと思うはずはない。

可哀想で、可哀想で。

胸が詰まる―――



「ごめん、こんな話して。」


「ううん。それより明紀は、大丈夫なの?」


「私?……大丈夫だよ。」



明紀は、少しだけ元気になった声で言った。



「ありがとう、すみれ。」


「どうして?」


「あれからね、あの人から、連絡ないんだ。私のこと、誰も心配してくれなかったの。だけどすみれは、こんな話聞いても怒らないで、軽蔑もしないで、私の心配してくれた。」


「実は、明紀ほどじゃないけど、私も悲しいことがあったの。」



私は、明紀にこれまでの話をした。


春次郎さんに出会った日のこと。

初めて会いに行った夜のこと。

手紙のこと。

今日のこと。

春次郎さんに託された、サックスのこと。

そして、伝えられなかった想い―――



明紀は、泣きながら話を聞いてくれた。

語り終わった私たちは、電話越しに一緒に泣いて。

一緒に励まし合った。


明紀がいてくれたから。

私は前向きになれたんだよ。


ただ悲しんでいるだけじゃだめだって、気付かせてくれたのは。



親友だった。
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