喪失
音楽会の日までは、一か月くらいあった。

最近では毎日、春次郎さんは屋上に行って練習をしているらしかった。

というのも、私の前では、まだ一度も吹いてはくれないんだ。

私が大学にいる時間帯に、屋上に行くみたいで。

それも、看護師さんから聞いた。


小児科の子どもたちも来るから、誰でも知っている曲がいいということで。

春次郎さんと相談して、『上を向いて歩こう』と、私の要望で『ルパン三世のテーマ』を演奏することになっている。

ルパン三世のテーマは、私が一番初めに動画で見た曲だ。

あのとき、春次郎さんに出会わなかったら―――

今、私はどうしていただろう……。


季節は、すっかり春めいてきて。

屋上にいても寒くはないけれど。

一生懸命練習しているという、春次郎さんが少し心配だ。


そして、ある日。

私は、廊下で白衣の先生に呼び止められた。



「あの、」


「はい。」


「高梨さんのところに、いつもお見舞いに来ていますよね?」


「ええ。そうです。」


「彼が、いつもサックスを吹いてるの、知ってる?」


「……はい。」



戸惑って答えると、先生はふっと微笑んだ。



「ああ、すみません。私は、高梨さんの主治医の石井と言います。」


「石井先生。」


「はい。あなたは?」


「えと、宮迫です。」


「宮迫さん、あのね……。」



先生は、笑顔を引っ込めると、言った。



「彼、音楽会に出たいんだよね。」


「ええ。二人で、演奏する予定です。」


「……厳しいかもしれない。」


「……えっ?」



一瞬、頭の中が真っ白になる。

厳しいって、どういうこと?



「だって、春次郎さん元気です。最近、前よりも明るくなったし。たまに笑うようにもなりました。それに、毎日サックスの練習をしてるって、」


「うん。元気に見えるよね。それは私も同じだよ。……しかし、現実として病状はよくない。彼の体は、癌の巣だよ。……残念だけれど、入院してきたころ、すでに彼は手の尽くしようがない状態でね。」


「……だって。」



止めようと思っても、目から涙がぱたぱたと落ちてくる。

先生の言葉に、反論する言葉を必死に探している自分がいる。



だって、春次郎さんは。

私とひとつしか年が変わらない、二十代だよ。

この間まで、あんなに元気で。

美しい音色を奏でていたんだよ。

一緒に、夜空の下で眠ったんだよ。

何でも知っていて、かっこよくて、ファンがたくさんいて―――

私の大好きな、春次郎さんなんだよ。



「宮迫さん。……すまないね。」


「音楽会って、予定より早くなりませんか?」


「一応掛け合ってはみるけれど……。他の出演者も、皆この病院に入院している人だからね。毎日、少しずつしか練習できない人がほとんどで。日程を簡単には早められないんだ。それを、唯一の生き甲斐にしている人たちだから。」



確かに、そうだ。

春次郎さんだけじゃない。

この病院にいる人で、病気が軽い人なんていない。

だから、我がままは言えないよね。



「本当なら、楽器を吹くなと言いたいところだけど。それは止めないから。……励ましてあげて、宮迫さん。」


「……はい。」



私は、涙を呑んで。

頷くと、病室に向かって歩いた。

こんなことを聞いた後で、彼に会うなんて。

本当はつらくて、どうしようもなかったけれど。
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