【壁ドン】先生と教室と私
時刻はもう19時を回る頃。
部活動はとっくに終わり、生徒達の声も聞こえなくなった。
一時間程前までは田中先生が何度か様子を見に来てくれたが、自分の出来の悪さを好きな人には見られたくなくて、遅くまで付き合わせてしまうのも申し訳なくて先に帰ってもらった。
後悔やら恥じやら情けなさで、冷たい夜風が一層身に染みる。
もう馬鹿なんだから手を動かすしかない。
考えるな、手を動かせ馬鹿野郎!
やけくそで課題を終わらせる事は出来たが、もっとちゃんと普段から勉強してもっと早く終わらせたら先生に褒めてもらえたかもしれないのにと考えると、思いの外達成感は感じられない。
さっさと家に帰ってご飯食べまくろう。
すると帰り支度を済ませて椅子を引く音を聞き付けたかのように教室の扉が開いた。
「やっと終わったか」
「……先生!?何で居るの!?」
「終わるまで待つって約束だったでしょ」
「先帰ってもいいって言ったじゃん!……もしかして、廊下で待ってた?」
「僕に見られながらじゃやりにくいみたいだったから」
今の話の反らし方は肯定の意味だ。
そう思うと咄嗟に侑華は先生に駆け寄り手を握り締めた。
「ほら!こんなに冷たい!」
風邪を引いたらどうするんだと問い詰めようと顔を上げると、先生は複雑そうな顔でフリーズしていた。
「あっ、ご、ごめん!」
「いや、大丈夫…」
すぐに手は離したが、教室の扉の前で二人の男女が互いに頬を赤らめながら下を向くという何とも言いがたい微妙な空気が流れる。
それを壊したのは意外にも先生だった。
「約束は守るくらいしか僕には取り柄が無いんです」
「そんな事ないじゃん。国立のすごい賢い大学出てて、教師っていう安定職について、私みたいに後先考えてない馬鹿こそ取り柄が無いって言うんだよ」
「そんな事ないよ」
「分かりきったお世辞ほど自分の醜さを思い知らされるものは無い!」
あぁ、これじゃあただの駄々をこねる子供だ。
勢いで言った後でものすごく後悔し、もう顔を上げられない。
しかし先生はそんな侑華をいとおしそうに見つめていた。
「汚れを知らないのかっていうくらい純粋な所。友達想いで優しい所。決めたら最後までやり抜く所。いつも明るい様に見えて実は弱い部分もある所。……最後のは違うか。でも、白石の良い所たくさん知ってるよ」
侑華がうつ向いていたからだろう。
それに綺麗な月明かりの中で学校に二人きりというロマンチックな状況がそうさせたのだろう。
普段なら絶対に口に出来ない気恥ずかしい台詞がするすると出た。
だからと言ってその言葉に嘘は無かった。
「珍しいね。そんな事言うなんて」
「自分でも驚いてる」
「こんな子供相手にちゃんと向き合うなんて、本当に先生は真面目っていう言葉を具現化した人だよね」
先生が声に出して笑っているというこの上無く貴重な顔を見たいけれど、まだダメージを引きずっているのか侑華はうつ向いたままだ。
「自分が子供過ぎて先生がどんどん遠くなる」
「僕はそんな大層な人間じゃないぞ?面倒事には関わらないし、手を抜くとこもあるし嘘もつく。だから白石の澄みきった綺麗な目が羨ましいし好きだ」
最後なんて言った?好き?
それは人としてか、いやこの空気的に異性としてぽかったぞ?
でも先生に異性として見られてた感触は一度も無い。
どうしていつも最後の最後に爆弾落としていくんだよ!
どうしよう、これじゃあ感情のバロメーターも上げてもいいのかよく分からない。
あぁ、この人たらしめが!!
今まで使ってなかった領域まで使うほど、侑華の脳は状況を判断しようとフル回転する。
「ご、ごめん!今のは、その、変な意味じゃなくて……」
「じゃあどういう意味!?」
その言葉と共に壁を叩く大きな音が校舎に響き渡った。
教室から立ち去ろうとする先生を食い止めようと咄嗟に侑華が腕を伸ばしたのだ。
しかしそれはあまりにも滑稽な状況だった。
これは今や世の中で持てはやされている壁ドンというものか!
はて、でもどうして私が先生に壁ドンしているのかな?
逆だよね?これって普通男女逆じゃないかな?
ここ数年で一番のやっちまった状況に、良いのか悪いのか侑華は吹っ切れた。
これ以上先生に見せる恥は無い。
一方、まさか女子生徒に壁ドンされるとは思いもよらなかったであろう先生はお得意のフリーズである。
そんな先生を解凍させる為にも侑華は問い掛けた。
「私は先生の事が好きです。先生は私の事、……好きですか?」
頬を赤くし、少し涙を浮かべながら真っ直ぐな瞳でそう懸命に告白する少女を前にして、心を奪われるとはこの事かと身をもって知った。
そしてそんな少女にいい加減な返事はしてはいけないとも悟った。
先生は侑華の腕を壁から離すと、そのまま両腕を掴んで壁へと追いやる。
「ちょっ…、先生!?」
あまりにも早い動作に頭がついていかず、今度は自分が壁ドンをされているのと先生の顔が近過ぎるのとで、侑華は先生から目を離さないくらいの事しか出来ない。
それに壁に押し付けられている腕の力はやっぱり男の人のもので、普段温厚な先生から想像も出来ない威圧感に何だか胸がキュンキュンと痛いくらい高鳴っている。
「またそんな目で見ないで。お預けくらってる犬みたい」
そう先生は困ったように眉を下げながら、でもまるで大切なものを愛でるかのような目で微笑みかける。
「まさか俺が教え子に惚れるなんて」
そう言い終わる前に二人の唇は重なっていた。
あまりの衝撃で、先生こそそんな優しい顔しないでと文句を言うのも、本当は自分の事を俺って言うのか聞くのも忘れてしまった。
「……せ、んせい?」
「今夜は月が綺麗ですね、ってこと」
先生はごめん、もう一回いい?と聞くと返事を待たずに再び口付けた。
今度はさっきよりも少しだけ強く、でも壊れ物に触れるかのように優しく。
そんな二人を冬空で澄んだ月が明るく照らしていた。
ーENDー