碧い人魚の海
 たしなめる口調で、ジゼルはアートの言葉をさらりとかわした。

 アートはジゼルのそばまで歩み寄って床に片膝をつき、恭しくその手を取って、彼女を見上げた。
「思わぬ日にあなたにお声をかけていただけて、ぼくはきょう、浮かれていたんですよ」
 アートはかがみこんで、その白い手の甲にそっと口づけた。それから唇を手首に滑らせ、その内側にもう一度口づける。

 ジゼルは拒む様子もなくされるがままになっていた。しかし、その仕草にはどこか投げやりなけだるさが滲み出ている。不穏な違和感を感じ、アートは顔を上げた。
 彼女のくっきりとした切れ長の目が、静かに彼を見返した。その視線に潜むのは、物憂さ。それに、形容しがたいある種の諦念だ。
 アートは再び彼女の手元に視線を落とす。普段から屋敷に閉じこもったままの貴婦人の、黒い手袋で包みこんで日光に当たることのない手は、青い血管が透けて見えそうなほど、病的に白い。

「でも、あなたはきょうは、少し疲れているようだ」
 少し考えて、アートは一石投じた。
「ブリューの領地までの往復は強行軍だったのでしょう? この時間までに行って戻ってこられたということは、馬車ではなく、早馬を飛ばして行かれたのではないですか?」

「知っていたの? アーティ」
 ジゼルの反応は顕著だった。途端にさっと手をひっこめ、とがめる口調になる。
「はい」
 アートは頷いた。
「いつもの喪服姿のあなたはとても蠱惑的ですが、きょうお出かけになったときの、乗馬服のあなたも見たかったな。勇ましくて、さぞ素敵だったろうにと思います」
 彼の軽口に対する返事はない。
 彼女の顔から微笑みは消え、黙って睨むように彼を見おろしている。だが、さっきの投げやりな態度よりはいい。アートはこっそりそう考えながら、質問の続きを投げかけた。
「首相の急用とは、お父上のことではなかったのですか?」

「……ええ、そうよ」
 ややあって、ふう、と肩の力を抜いて、小さくジゼルはつぶやいた。
「臨終だったの」
 アートは瞑目した。ではやはり、彼の予想は当たっていたらしい。カルナーナの首相の急用とは、間違いなくこの件だった。
 彼は頭を垂れて、短く哀悼の意を口にした。
「奥さまに、お悔やみ申し上げます」

「よして」
 彼女の声が強張った。
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