碧い人魚の海
「……無理に結界を越えようとしたそうよ。隣国のアドリアルの領主と連絡を取ろうとしたらしいの。でも、ひょっとしたら覚悟の上だったのではないかと、首相はおっしゃっていたわ」
「結界ですか?」

「父が幽閉されていたという噂は、聞いたことはあるのでしょう?
 父は一見、領土にある自分の屋敷で静かに暮らしていたけれども、幽閉は事実よ。強力な術師の結界の中での生活を余儀なくされていたの。結界を越えると彼を死に導く強い術が掛けられていた。そうやって見張っていなければ、他国と連絡を取って、カルナーナにとって不利な方向に状況を動かそうとしかねない人だったから。戦争はもう、終わっているのに。
 しかも、カルナーナの民主化から既に20余年経っているというのに、王制や貴族政治の復権を夢見ていたのよ、あの人は」

「お父上のご臨終には、間に合われたんですか?」
「ええ」
 もう一つ、ジゼルはため息をついた。
「カルナーナの首相は、いつだってそういう細かいところにまで気を配る人ですもの。あの抜け目なさがわたくしは嫌い。術師に延命の術を命じて、わたくしの到着を待たせていた。わたくし、父の最期に間に合うかどうかなんて、ほんとにどうでもよかったのに。そんなくだらないことで、有能な術師を消耗させることはなかったのに」

「くだらなくはないと思いますが」
「そう、そうね。わたくし父の最期を涼しい顔して笑って見送ったわ。自分のあとを継いで女侯爵を名乗ってほしいという父の最期の言葉を冷やかに撥ねつけたとき、少しだけ胸のつかえがとれた気がした」

 アートは一瞬返事に窮した。
 彼女の顔に浮かぶのはどう見ても傷ついた人間の表情で、溜飲を下げた人間のそれではない。
 しかも、父親の死に際に和解の道ではなく断絶を選んだ直後に、何も事情を知らぬ男を招き入れ、抱かれようとしていた。それも、投げやりに。自罰的に。
 彼は顔をしかめ、浮かんだ言葉を口にした。
「それはきっと、胸が痛んだの間違いです」

 自分などが言うべき言葉ではないという思いがちらりと胸をよぎる。とはいえ、口をつぐむ気にはなれなかった。
 分に過ぎた口を利いてしまった理由の一つには、多少のいらだちもあったかもしれない。
 快楽の道具にされることには文句はない。お互いさまだと思うからだ。しかし、全く楽しんでいない女性を相手にするのは本意ではない。
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