碧い人魚の海
「わかった風な口を利かないで!」
 はたして、ジゼルは声を荒げた。
「あの父がわたくしの夫に何をしたか、あなたは知らないからそんな風に言えるんだわ! わたくし、戦争が終わってすべての後始末について首相にお任せすると決めたあとも、本当は自分の手で夫の敵(かたき)を取るべきなのではないかと考えて、どこかでずっと迷っていたのよ」
 さっきまでのけだるさをかなぐり捨てた彼女の口から、せきを切ったように言葉があふれ出る。

「でも迷っているうちに父は死んでしまった。終わってしまったわ。もう、本当に終わってしまった。もう迷うことも惑うこともなく、わたくしは解放された。
 でも、これでよかったの? きょうわたくしが父に対してできたことは、ほんの少しの意趣返しでしかなかった。ささやかな、仇を討つなんていえないぐらいちっぽけなものでしかなかったのに」

 少し迷ったが、アートは立ち上がり、ジゼルの隣に腰をおろした。
 彼女の細い肩に両手をかけて、そっと引き寄せる。性的なニュアンスとして受け取られないよう気を遣ったつもりだったが、うまくできているのかはわからない。
 第一彼は、これまで彼女をそんな風に、壊れもののように扱ったことがなかった。
 この年上の未亡人はいつでも彼の軽口も賛辞も熱意をも、余裕たっぷりにあしらってきていたからだ。
 それでも彼は、彼女を包む腕にそっと力を込める。

「それでよかったとぼくは思います」
 両腕の中の彼女は固くこわばっていた。アートは自然になだめる口調になる。
「人の死に対してよかったなどと言うべきではないのかもしれませんが、少なくともあなたがご自分の手を汚すことなく終わってよかったと、ぼくは思います」

「だって、なら、夫の──あの人の無念はだれが晴らすの?」
「静かに、ジゼルさま。人魚が目を覚まします」
 より一層抱え込むようにして腕の中に包みながら、囁くような低い声で、アートは彼女の言葉を遮った。隣の部屋につながるドアは開けてある。人魚は今眠っているが、声は多分隣の部屋まで筒抜けのはずだ。
「先の戦争では、あなたのご主人に限らず多くの軍人が亡くなったのではないのですか? お父上の罪状をぼくは存じませんが、首相の計らいによって結果的に命を落とされることになったのだとしたら、贖罪は終わったと考えることはできませんか?」
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